paon

偏屈でしょうか、いいえ誰でも。

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偏屈でしょうか、いいえ誰でも。

最近の記事

消費されないでね。

特別な毎日を過ごしているわけでは無いけれど、日々を生きていく中で「擦り減り」を感じる事は誰にでもよくあると思う。 けれど、それについて過敏なほどに拒否的感覚を覚える人と、あまり気づいていないうちに擦り減っていく人がいる様な気がして、出来る事なら必要以上に擦れてなんて減ってなんて欲しく無いから、この事について自分の思う事を書いてみようと思う。 私は職場や学校でおとなの人に「いい子だよね〜」と言われると、いい子の前に"都合の"という枕詞が聞こえる。 自分に対してだけじゃ無い。

    • 貴方に恥じない大人でいたい。

      私の言葉や考えを好きだとか、共感したとか、そんな有難い言葉をもらった時、私は「この人に恥じない大人になろう」と思う。 では、恥ずかしい大人ってどう言う事だろう。 なんとなくのイメージはあっても明確に言葉にしてみた事はあまりなかった気がするので、今回はそこに挑戦してみようと思う。 お外の人の言う"恥ずかしい大人"っていうのと、私のイメージする"恥ずかしい大人"は多分少し違う。 例えば地べたに座り込んでみたり、ドリンクバーの飲み物をあれこれ混ぜてみたり、はたまたボキャブラリーが

      • 反響は止まない。

        意地悪が自分に返ってくると言うのは本当で、私が生きづらいのは日々自分の底意地の悪さに虐められているからの様に思う。 例えば私はSNSの所謂メンヘラ投稿の類いを見れば「この人は"(不特定な)誰かによる救いの言葉や気持ち"を求めているのか、"(特定された)あの人が相手をしてくれること"を求めているのか、どっちなのだろうか」と考えてしまう。 多くの人がそこをふわっとさせておきたい事を分かっていながら、そう言った心無い想像をしてしまう。 そこに止まらず、そんなメンヘラ投稿に対して"

        • 豊かに生きるということについて 

          ずっと人生はとても短いと思っていた。 「好きな事や興味を惹かれるような物事が世の中には数えきれないほどある」という事実に焦りのようなものを感じていた。 きっと全てを選び取ることは出来ない。けれど限りある中で出来るだけの好きやときめきを自分の人生の中に取り込まなくてはならないと必死になって考えていた。 けれどこの感覚はどうやら半分は正解で、半分は間違いな様な気が最近はしてきている。 例えば私の人生を朝食のビュッフェだとした時に、エビフライも天ぷらもエビチリも、パスタも湯豆腐

        消費されないでね。

          オリジナル天国

          今日、母から祖母の家で飼っていた犬が亡くなったとの連絡があり、私は仕事帰り彼女に会いに行った。 人で言うところの105歳だそうで、大変長く生きた犬だった。 彼女は私が7つか8つの頃祖母の家にやってきた。 おばあちゃん子だった私はよく祖母の家にお泊まりをしていた為、彼女にもたくさん世話になった。 かけっこをしたり、ボール遊びをしたり、パラパラだって一緒に踊った。 感覚的に言えば私たちは従姉妹のような関係だったと思う。 それこそ出会った頃はお転婆な妹が一匹増えた様だったけれど、

          オリジナル天国

          不機嫌

          友人と仲違いをしたから。 上司が今日も理不尽だから。 恋人に蔑ろにされたから。…etc こんな理由で自身の機嫌が損なわれてしまったと言う経験を持つ人。いや、日々そんな憂鬱な事象と対峙していると言う人だって少なく無いだろう。 大人にもなって、自身の不機嫌をわざわざ外部に漏らすことはきっと美しいとはされない。 しかし、多くの人に「それは機嫌も損ねるよね、仕方がないよね」と思ってもらえたなら、その不機嫌は同情を買うための道具にもなる。 だから、大人の不機嫌は子供の不機嫌とは違って、

          新作のコンビニスイーツが出るたびに、美味しかったとおすすめしてくるやつには気をつけろ。

          題の通りだ。気をつけろ。 まず第一に考えるべきは「奴らの舌が信頼出来るか」では無い。「奴らがその発言をする時、何を目的としているのか」だ。 コンビニスイーツという誰でも手の出しやすいカテゴリー、そして新作という多くの人はまだ食べていないからこその話題性と、新作スイーツに敏感な私というよく分からないステータス。 奴らが会話の中心に自分を据える手段として、「新作のコンビニスイーツが美味しかったからおすすめしたい」という話はとても扱いやすいものの一つと言えるだろう。 しかしだ、考

          新作のコンビニスイーツが出るたびに、美味しかったとおすすめしてくるやつには気をつけろ。

          他人への興味

          私は良く自分以外の大勢の人のことを他人(ヒト)と表現するが、これは他人(タニン)とも読める表現だから、私が想像しているよりも冷たい印象に映るのではないかと少し心配になりながら、それでも他の人という意味ではこの言葉が一番適切かと思ってこの言葉を使う。 たまにこの冷たさが自分には合っているような気もしてこの言葉を使う。 私は他人にあまり興味がないのかもしれないな…と思う。 表現が曖昧なのは、きっとそうである事を自身が受け入れたくない事の表れだろう。 これは自身に対しても他人に対

          他人への興味

          嘘、本当 言葉、心。

          私の言葉は嘘のような本当で、本当の様な嘘だ____。 きっと私にとって言葉とは、自分を納得させるための手段だったのだろう。 筋の通った説明ができることが、確かにあることの証明だった。 だから言葉に出来るものが本当なのだと考えてきたし、言葉にならない曖昧なものはどこか気の迷いのような瞬間的な気まぐれに過ぎないという風に捉えていた。 それはまるで科学的根拠の証明できない心霊現象を脳の錯覚とするように。 私もそうする方が都合が良かったのかも知れない。 この様にして、不自然なほどに

          嘘、本当 言葉、心。

          完璧なわがまま。

          これはかの有名な村上春樹のノルウェイの森という小説のミドリという女の子が発した印象的な台詞で、私はこれがなんとなくなのだけれど、なんとなくとても好きだ。 この台詞だけ見ると何とも理解しずらい話の様にも見えてしまうのだけれど、どこかわからなくない様な気がずっとしていた。 とあるきっかけで「恋人や友人等好意的な相手に対してとわがまま」について少し考える機会があり、この台詞を思い出した。 恋人はわがままの言える人が良かった。 自分が自信を持って、堂々と振る舞える相手が良いだろうと

          完璧なわがまま。

          ほんのちっぽけの根性

          何だか平成の青春曲みたいなタイトルになってしまった、、。 そんなことはさておいて、今日のお話は小さな小さな、だけど大切なマイルールみたいなお話です。 私にはもう何年も前から愛用しているXアカウントがある。 所謂”裏垢”と呼ばれる類いのものだ。 そこには日常の中で感じたちょっとした違和感や、考え事をする中で思いついた一つの仮定や、心の動いた瞬間をこっそり書き留めてある。 また、外部との接触を避けたくなってしまった時のシェルターのような役割も担っている。 私の文章は時々大袈裟で

          ほんのちっぽけの根性

          僕と君との丁度良い関係

          恋愛的な好きと友情的な好きのハッキリとした違いが、あるいはそれらの定義が、貴方の中にはあるだろうか。 私にはこの違いが未だにあまりわからない。 一部の仲の良いお友達はご存知かもしれないが、「恋愛とはなんぞや」の理解を深める為に恋人を作ってみたとかいう最低な人間である私は、こんな初歩的な事が未だによくわからないでいるのだ。 ノダなんて偉そうに言い切るものでもないが。 さて、「それでは何故わからないか」というところに話を進めていきたいところであるが、"何故わからない"という

          僕と君との丁度良い関係

          その優しさは愛情ですか?それとも、貴方に好かれるための手段ですか?

          優しい人が好きです。 そして私も優しい人になりたいです。 出来るだけ貴方を愛していたいです。 そんなふうに考えていたら、気になることが出てきました。 愛する貴方と、愛したい私に警告。 「優しさ」というのは一言で扱うのがとても難しい。 何をもって優しさとするかは人によって大きく違うし、いろんな言葉も感情も優しさの中に丸め込んでしまう人もいる。 だから、優しさを優しさだけで大きく取り扱うことは難しい。 少なくとも優しさには種類がある。 今回は愛情と手段という二つにこの優しさを

          その優しさは愛情ですか?それとも、貴方に好かれるための手段ですか?

          孤独と付き合うということ

          このタイトルに取り組むには、まだ私は幼すぎるかも知れない。 ただ現時点での見解を記録として、ここに書き置きしておこうと思う。 孤独な時間とはとても尊いものだ。 自分と向き合うために、物事を捉えるために、誰かを愛するために、必要不可欠なものだと考える。 また孤独は、対人関係で疲弊した心を癒し、ささやかな安らぎを我々に与えてくれる。 しかしながらこの”孤独”あまり良い言葉として使われていない場面が多く、否定的な感覚を持っている人も多い様に感じる。 今回は「孤独は取り扱いによって

          孤独と付き合うということ

          愛してるなんて寒いこと…

          夏目漱石が「日本人は愛してるなんて言わないのだから、I love youは月が綺麗ですねとでも訳せ」と言ったという話がとても好きだ。 もちろんロマンチックで素敵もそうだけれど、何よりやはりI love youを愛してると訳すのは適切でない気がするというか、「愛してる」という台詞がどうも腑に落ちない気がするからだ。 好きより大好き、大好きより愛してる そんなふうに、これらの言葉を大きさの違いだけで捉えているのだろうか?と思うような事がたまにあって、恋人に「愛してるよ」と言われ

          愛してるなんて寒いこと…

          幸せ者の貴方には

          「幸せ者の貴方にはきっとわからないだろうけど」なんて前置きと共に不幸話を聞かされる事があるけれど、あれはその"幸せ者と不幸せ者"との差異を埋めてくれるくらいにはストレスだと感じている。 幸せに生きてきた人間が、自分は不幸だと思い込んでいる人間に対して常に細心の注意を払い、気を遣って生きなければならないのであれば、その幸せ者は本当に幸せなのだろうか。 それに、幸せ者側が気を遣って生きるだけならまだしも、不幸者は不幸を武器に理不尽を振り翳す。そんな自分勝手が通用するような魔法の力

          幸せ者の貴方には