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明日のタバコ

 自宅のベランダでタバコを燻らせる。鉛色のため息がこぼれた。もう、わざわざ外に出てタバコを吸う必要などないのにここでタバコを吸っている。部屋の方を振り返る。当然ミナキの姿はない。
 ミナキが荷物をまとめて実家へ帰った。手伝おうかと声を掛けたら無視された。勝手に手伝ったら、「大丈夫だから」と目も合わせずに言われた。
 溶けたバームクーヘンみたいな月が浮かんでいる。生ぬるい夜風が頬を撫でた。
「金が無い、金が無いって言ってるくせに、何でタバコ吸うの?」
 まだ会話があった頃、僕がタバコを吸おうとベランダへ出ようとした時、ミナキが言った。
「わかんない」
「何それ?」
「別に吸いたくないんだよ。本当は」
「だったら、やめなよ」
「やめたいよ。でも、無理なんだよ」
「意味わかんない」
「本当に意味が分からない。でも、気づいたらタバコとライターを持って、外に出ようとしてるだ」
「そのまま飛び降りてくれたらいいのに」
 ミナキが真顔で言った。僕は笑いながら、
「その時は受け止めてよ」
「馬鹿じゃないの」
 ミナキは背を向けて、自室へ戻っていった。リビングの灯りも消された。僕は舌打ちをして、ベランダへ出た。次の日からミナキがまともに口をきいてくれなくなった。そして、今日、出て行った。
 一本目を灰皿に押し付け、二本目に火をつける。まとわりつくような苦味が口内に広がる。
〈タクミくんは嘘ばっかりつく〉ミナキが言った。
「嘘もつき続ければ真実になるんだぞ」僕は言った。
〈アナタはいつも約束を守らない〉ミナキが泣いた。
「守る努力はしてるけど、本能が邪魔してくる」僕は笑った。
〈アンタは本当にどうしようもない〉ミナキが喚いた。
「そんなの今さらだろ」僕は呆れた。
 三本目に火をつけようとしたところで、飲み物が欲しくなり、部屋に戻って財布を取ると自宅を出て、歩いて五分ほどのところにあるコンビニへ向かった。
 缶コーヒーを一本買った。タバコも買っておこうと思ったが、やめた。
 店を出てすぐにタバコに火をつけ、缶コーヒーのプルタブを引いた。舌打ちみたいな音がした。
 自動ドアが開いた音がした。女が一人出てきた。何となく目をやると、目が合った。
「あれー、久しぶりー」女が声をかけてきた。
「はい、どうも」
 思わず会釈してしまう。だが、誰だかまったくわからない。
「こんなところで会うなんてねー。元気だった?」
「ええ、まあ」
「田中とか元気? 最近会ってる?」
 田中という知り合いは確かにいる。高校の時の同級生だが、別に仲が良かったわけではないし、連絡先も知らない。当然、どこで何をしているのかわからない。
「いや、会ってない」
「そうなんだ。私が前に会ったときは、イギリスで働くことになったって言ってたよ」
「へえ、すごいな」
「昔から英語出来たもんね。田中」
「そうだったな」
 適当に話を合わせる。改めて女を見る。割と美人だった。
「タバコ、まだ吸ってるんだね」
「うん」
「やめないの?」
「どうだろ。わかんない」
「そんなもんだよね。てかさ、ちょっと聞いて欲しい話があるんだけど、聞いてくれる?」
 女が僕の肩を叩きながら言った。僕は戸惑いながらも頷いた。
「昨日、バス停でバス待ってたら、隣にいたのが町村だったの。ほら、美術室のイスを窓から捨てて停学になった、町村」
 町村という知り合いはいない。タバコを灰皿に押し付ける。コーヒーをすすり、新しいタバコに火をつけた。
「それで、久しぶりって声かけたんだけど、めちゃくちゃ反応が薄いの。忘れられたのかなーって思って、高三の時クラス一緒だったじゃんって言っても、誰ですか? って感じで、あれ、もしかして人違いかな? って思って、町村だよね? って聞いたんだ。そしたら、はい、そうですって言うの。で、美術室のイス、窓から投げ捨てたよねって訊いたら、何のことですか? ってなって。高校を訊いてみたら全然違うところだったの。まさかの、名前が一緒のそっくりさん。めちゃくちゃびっくりしたよ本当に」
「そうなんだ」
「ところで、一応訊くけど手塚だよね?」
「いえ、僕は町村です」
「え? 待って待って、どういうこと?」
 女が驚愕の表情をした。それを見て思わず笑ってしまう。
「でも、美術室のイスは投げ捨ててません」
 女が少し間をおいて、
「高校はどちらですか?」
「S高校です」
「申し訳ないです。人違いでした」
 女が頭を下げた。僕はタバコを燻らせながら、
「いえ、大丈夫です。でも、こんなことあるんですね」
「ですね。まさか、二回も人違いするなんて」
「だいぶ、ややこしい人違いですけどね」
「私が声をかけた町村は町村だけど私が知ってる町村じゃなくて、手塚だと思って声をかけたのも町村だけど、私が知っている町村じゃなかった。確かに、すごくややこしいですね」
「てか、なんでその町村は美術室のイスを窓から投げ捨てたんですか?」
「青春の一ページに刻みたかったって言ってました」
「何でまた、そんなことを刻みたかったんですかね?」
「若気の至りってやつですよ。きっと」
「なるほど。それはとてもわかりやすい」
 僕はタバコを消し、新しいタバコに火をつけた。
「私も一本貰ってもいいですか?」
 女が言った。僕は最後の一本を渡して、火をつけてやった。
 ミミズの幽霊みたいな紫煙が二つ昇る。また、コンビニから客が出てきた。それを二人して目をやる。中年の男だった。
「あれ、担任じゃないんですか?」僕は言った。
「違いますよ。私の担任女でしたから」
「僕も女でしたよ」
「本当ですか、名前何ですか?」
 僕は高三の時の担任の名前を言った。女の担任の名前とはまったく違っていた。少しもおもしろくないはずなのに、互いに笑い合った。まるで本当に同級生だったかのような気持ちになった。そこからしばらく、他愛もない話をして、やがて同じくらいのタイミングで互いにタバコを吸い終わった。どちらともなく苦笑いをして、じゃあ、これで、と言って別れた。
 僕は帰り道、タバコを買っておけばよかったと後悔した。だが、これを機会に禁煙しようかな、と考えた。だけど、この決意は朝になったらすっかり忘れてしまって、出勤時、駅のコンビニでタバコを買うに違いない。
 自宅に戻り、女の名前を聞いていなかったことを思い出した。
 高校のころ好きだった女と同じだったらいいな、と一人笑った。
 ミナキの顔がふと浮かんだ。タバコが吸いたくなった。玄関に目をやり、スマートフォンで時刻を確認した。日付が変わっていた。
僕はベランダに出て夜風に当たりながら、名前も知らない女のことを考えていた。


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