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映画『すずめの戸締まり』雑感

まずカーステのあざとい選曲と、その曲たちを口ずさむシーンで何故か心がざわついた。なんでだろう。ちょっと自分にはベタ過ぎたのかもしれない。

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大ヒットを前提とした作品だろうから、さまざまな意図や仕かけが潜んでるんだろうことは想像できるし、単なる「いち鑑賞者」ごときがそのすべてをフォローすることなどできないことも承知している。

個人的には、この映画に「自己欺瞞からの脱出」というテーマを見た。

(以下、ネタバレを含む可能性があります)



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センセーショナルな体験によって「アプリオリな自己」は崩壊寸前となる。これを回避するための緊急措置として、現状を正当化させるような理論を構築していく。教科書に墨をぬるように、これらを上書きし続けていくことで「理論武装された自己」を獲得する。

「理論武装された自己」は延命のための処世術であり、本来の自分にフタをしている(自己欺瞞の)状態にある。

これでいいと「思おう」としながら生きている。でもほんとうにそれでいいのか。このモヤモヤを解消すべく、瓦礫(理論)の下に埋もれて忘却された「アプリオリな自己」をふたたび掘り起こそうと決意。主人公は「心の旅」を経て、本来持っていた自分を取り戻す。

「ドア」の向こう(作中でいうところの〈常世(とこよ)〉)は「心の中(思考空間)」を表現しているんじゃないかと思う。時間の概念もないし。

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自己防衛のために精神衛生を管理し続けることで、素直な自分から乖離していくというジレンマ。誰しもいちどは経験することだ。素直に生きている人を見て羨ましく思ったりしたこともある。細かいウソを精算し続けたら、今の自分がチンケな「砂の城」であることを認めることになる。

ただ、それが自分にとって辛い作業だとしても、「無知の知」を経て本来の自分を取りもどすことが自分を救済するために必要な儀式なのだと感じた。

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