『ボディネガティブ』はネガティブか?


(誤解されぬ様に最初に述べますが、私はボディポジティブ推進者です。)

『ボディポジティブ』という言葉をご存知だろうか。痩せている=美しいという考え方を捨てて、ありのままの自分を愛することだ。たくさんの多様性が認められる中で、わたしたちは容姿や体型に悩まされること無く自身を愛することを『ポジティブ』としてきた。最近じゃパリコレに極端なスキニーモデルは出なくなったし、美の基準は細さから健康へとシフトしつつある。

でも、一つ忘れてるんだよね。あまりにも『ポジティブ』を推進することで、この考え方は私のような『ボディポジティブになれない人間=ボディネガティブ』を否定している。そう感じるのは、私がまだボディポジティブになれていないからかもしれないけど。ありのままの貴方で良い。一見素敵な言葉だけど、まぁつまりは、ありのままの貴方を愛せないのは……ってことだ。元々プラスサイズの方々を肯定するために産まれたこの言葉は、いつの間にかスキニーサイズの方々を追いやるようになっていった。一部の人達ではあるけれどね。今まで美とされてきた細さが、急に牙を向かれる対象になったような気がする。「もっと食べなきゃ」「細すぎる」って……待って待って、『ありのままの貴方で良い』はどこ行っちゃったの?

そもそも、何故私たちは「細さ」を美としてきたのか?平安とか江戸の時代では、ふっくらした女性こそ美しいとされてきたはず。色々な年表を遡ってみると、ファッションから見えてくるものがあった。60年代後半、ベビーブーマー達が成人を迎える頃。所謂若者が多くの流行を握るようになると、エレガントでふんわりとした印象だったファッションは、ミニスカートやAラインワンピへと移り変わった。当時イギリスで流行ったツィギーが来日したことで、爆発的な流行へとつながったそうだ。それまでの『美しくふくよかな女性』は、流行遅れの煙たがられる存在となった。細いという美が社会に根付いていったのもおそらくこの辺りだと思う。

大前提として、この根付いた美意識というのはそう簡単に変わらない。
社会に育てられ社会から学ぶ私たちは、意識も思考もこの『社会』から形成されていく。幼少期より植えつけられた考えに疑問を持つ頃には、既に根が張っている。まぁつまり何が言いたいかというと、容姿や体型への不満やコンプレックスはたかだか個人ごときには解決できないということだ。それをどうポジティブに捕らえようとね。だからこそ社会全体が変わる必要があった。ボディポジティブという言葉を広め、スキニーサイズを否定することで除草剤を撒いた。言い方悪いけど、私にはそう見える。当時ふくよかな女性を追いやった様に、対象が変わっただけに過ぎない。

過度なダイエッターは減ったかもしれない。自分に自信を持てる人間は増えたかもしれない。でも世の中には食べても太れない人間や、拒食症に悩む人間だって居るのだ。そういう人間を一概に「不健康」と称しボディポジティブを推進してきたわけですが……
ありのままの自分を受け入れられないのは、本当に『ボディネガティブ』か?って素朴な疑問。最初に述べた通り私はまだボディポジティブにはなれていないけれど。でも、『ポジティブじゃない=ネガティブ』という方程式は残念ながら成立しない。(ポジティブならネガティブでは無いという説を表としたとき)
と、いうことは。少なくともネガティブでは無いということだ。うんうん。よく考えてみればそうじゃない?だって私たちが自分を認められない理由、そこには理想像がある。例えそれが社会に植えられた種であっても、育ってしまえば己の価値観となんら変わりない。むしろその理想へ近付こうとする姿はポジティブであるとも思える。

結局のところ、いかに自身の美しさを表現できるかな気がする。太っていても痩せていても、健康に大きく影響が無いなら良いじゃない。植えられた種でどんな花を咲かせるかは自身が決めることであって、それをポジティブだのネガティブだのという言葉に左右される必要性はどこにも無い。ボディポジティブならぬ、ボディマインドってね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?