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あい、あるいは好き勝手アンソロ

【ことのあらまし】

なんだろう。

いつからこんなに自分の身の回りのものを感じてしまい、それについてこんなにも考えてしまうようになったのだろう

と、思ったけれど

そんなこと誰にもこの日この瞬間この刹那……みたいに言い切れるわけないのだ、考えるのやーめた

この前(だいぶ前になるかも)に書いた記事の自分を確認してみたいけど、恥ずかしくて見れてない

きっとどんなことを書いているかは想像できるし、それがその時においての正解に違いなくて。人間というものはその時その時の、自分視点での最善を生きているので、僕も例外ではなく正解に違いない。でもその時の自分と今の自分は相反しなくても相容れるとも限らないので仕方なく読むことにした

ちなみに、恥ずかしくて読めないと言ってから、早一週間と言わず二週間は経っている

正確に言って17日が経っていたのは正直焦っている

……そうしてこの記事を放置して2年弱?過ぎていて焦ったので、追記を施しながら、当時のものは排除することなく加筆だけして、今更ではあるが載せてみることにする


愛について

そうだ。

このときの私は、体良く現れたTwitter漫画に動かされるままに駄文を書き堕とし、長年の

「自分は恋愛とかそういうのではない」

という不恋不愛スタンスを明確にし、

「恋愛感情を持たず好意に生きている」

ということにしたのだった
そういう場所にこの身を漂着させて、靄がかり穴の空いた心を埋めたのだった

だけど最近、そんなこともないのかなって思うことがあって

ある人にとっていい道を進んでほしい歩いてほしいと心から思うことがあって、そのために自分ができることならなんでもしてあげたいと思って

あとは人としての好きをその人に向けている自分、その人の今後に対する祈りや願いを持っている自分に気づいて

世にいう恋愛とは違うけど、人を人として好きになって、ずっと幸せでいてほしいって思ったり、そういうのを愛って言うんじゃないかって結論づいた

突発的で爆発的で偶発的で刹那的な、僕にはわからない恋とやらではなくて、今持ってるこれこそ愛なんじゃないかと思った

その後も好きと愛についての思考は止まらず、色々考えた。

愛おしいとか愛でるって愛って入ってるけど(愛)ではなくても使うよな、恋的に使われる方が多いよな。でも愛は愛だよ愛なんだよね……納得できないけど一瞬の煌めく愛も存在するとしてあげよう、僕は持続していくものをとしたいものだけどね

とか。

つまりですね、僕は自分の手の届く範囲の、身の周りの人たちのことを愛していて、それぞれ向けている愛は違えど、全て愛なんだと気づいた

そして人々が恋とするものは自分には感じられるものではなくて、愛こそが全てとどこかで思っているのだと気づいた

短期的な付き合いや考え方が増えた社会。それはSNSの普及ですぐに関係ができるフローがあるせいかもしれないし、成果を次々求めていく資本主義の加速があるかもしれない。長期的なものを、愛を求める僕はこの社会に向いてないのかもしれないけど、強く生きて、生きて生きて、愛に生きてやろうと思った


関係はないけど、誕生日の話

素敵な誕生日ですね?が嫌いだ

本人に決定権もないもので、しかもみんな持ってる誕生日だよ?

全ての誕生日が、言ってしまえば366すべてが素晴らしく良いのになっていつも思う

断固として366と書くのは自分が365+1の+1側の人間であるからなのだけれど

世にいううるう年ってやつです、厳密にはうるう日です、うるう年生まれだとその年の人全員そうです……セケンノバーカ(小声)

ハブられる側の人間だからなのだろうけども

珍しいですね?は理解できる、自分でも思う

自分と、周りの人の誕生日と、それ以外を分断してしまえる人の気持ちをわかることができたためしがない

すべて誕生日は尊くて、素敵もクソもないわけだ

「○○(有名人)と同じ誕生日だ!」とか「〜の日ですね!」の方がまだマシに思えるくらい、僕は誕生日の形容に素敵を使う神経を持つものを許せない

せめて縁起いいですね!くらいにしようね、みなさん

誕生日ハラスメント警察が出動するかもしれないのでね


長々と変なことを書いていたんだなーと思いながらつらつらと読み、みなさんと同じように読み進めてきまして思ったことを。

自分の中にあった思想のタネというか思考の源泉みたいなものが、大学に入ってからの経験値で花開いている感覚がこの記事執筆段階の大学1年次からあったんだなと思い返していました。

いまになれば、特に最近はnoteでの繋がりが実生活にも響くようになっていて。
それは、文フリやその他インカレの集まりに参加することだったり、詩人の方や出版社の方とお話させていただく機会があったり、そういう積み重ねなわけですが。

「自分のいままで蒔いた種が芽吹いてきたな」とか「また新しい種たくさん蒔いてるな」とか「社会人にならなくても花開いて自分の人生を誇れる時が来るといいな」とか思うわけです。

自分の推しに歌い手のめいちゃんという歌上手くてお茶目で、それでいてかっこいい最強な人がいるんです。その人はつい先日6/16に無期限活休に入ったのですが、こういうこと言ってたんです。

『あなたのもっている憧れや夢、あきらめないでください。それが絶対に成功するとは限りませんが、踏み出すその一歩がいつか絶対に自分に返ってきます。中途半端でもなんでもいいので踏み出してください。時代に負けるな。』

踏み出せと、歩みを止めるなと、僕に関して言えば創作を止めるなと言われたようなもんです。

ここで言うのは初めてですが、歌も一応歌ってるんです、僕。

歌も、もちろん詩や小説やの物書き全般も、踏み出して動き始めた歯車の中にいる。

それでも適当なこと、自堕落なこと、あります。定期的に更新しようとしても、忙しいからいいやーとか今じゃないよなーと投げ捨てる時、あります。そんなだけど、やり続けようと思って期間が空いても帰ってくるんです。いまだってそうです。サークルでつくってればいいやって思ってたときもあったけど、帰ってきて文章を書いてます。

みなさん、拙い伝え方にはなりますが、なんでもいいんです。なんだっていいから踏み出して、二兎を追う者は一兎をも得ずとか言われるけど、何兎でも追ってください。一兎に決めたら、一じゃなくても絞り込めたなら、そこにフォーカスしてやり抜いてください。僕もそれまで、いや、一生創作を止めないので、持久走で勝負です。

創作をする人もそうでない人も、歩き続けよう走り続けよう、という締め方でなんとか、この文章をおえさせてください。いま出せる僕なりの小手先の創作論(圧縮版.zip)です。どうかお納めください、よかったらフォローしたり他のものも読んでください、フォローしてくれたらあなたの創作を見守れるので助かります。

みんなこの時を平等に生きる人間です、止まってる暇なんてないですよ。

panirus

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