お弁当の話

お弁当作りを帰省した時に何日か担当した。人にお弁当を作るなんて経験はなかったので不安もあった。ただ工夫するのは面白くて盛り付けや詰め込みに結構な時間をかけた。中身はもちろん母作。ただ詰めるだけでも愛は込めたし、作り終えるとなぜか満足感もあったし、得意げになった。

お弁当の年表

大好きな給食は小学校の卒業と共に卒業し、中高時代は母のお弁当だった。毎日基礎構成は変わらず、友達のお弁当のようにハイカラのものが入っていることもないため飽き性の私は機嫌の上下と比例して母お手製のお弁当愛も上下した。

本当にひどい話だが、母が唯一力をこめて作っていた卵焼きに対しても「卵焼きもういらない!」と突然の降板宣言をしたり、「あの冷食は入れないで!」と戦力外通告をしたりと本当わがままだった。

今となってはお弁当を作ってもらえることのありがたみがわかって、そんなことを言っていた過去の私に自打球をお見舞いしたくなる。

お弁当が嫌いな人なんていない

お弁当の何が好きかというとお弁当には詰められたものの分だけ愛も詰まっているところだ。一つ一つのメンバーは作られた過程でも愛が溢れているのにそれをたくさん集めてまた詰めるのだからお弁当はそんなの愛のオールスターゲームと言っても過言ではない(なんか今日野球の話多め)。

なにより自分のことを考えて作られているなんて最高。しかもそれを作った人がいないところでもその人を感じられるなんてモバイル機器の先駆けなのである。電話だってメールだって書いている人の気持ちを遠くに居ても感じられるじゃないか。それに比べてお弁当は作っている人の気持ちを視覚でも味覚でも感じられるし。

大人になると身内がつくるお弁当を食べる機会が非常に少ない。ただたとえ作り手が身内じゃなくても、それがロボットだとしても食べ手のことを思っていることには変わりがないから嬉しい。

お弁当の魔法

お弁当に入っているということで一つの魔法がかかる。中身が単にお皿に並べられていても嬉しくない。あの箱に詰まっていることそしてそれをわくわくしながら開けられることは一種の調味料なのだ。

どこかでご飯を食べない子どもがお弁当箱にそのご飯を詰めたら食べたという育児体験記をふと目にしたことがある。そう!その子どもは小さいながらにお弁当マジックにかかっているのだ。

お弁当食べたい

大人になった今だからこそお弁当が食べたい。作ってもらいたい。そのありがたみも愛情もきちんと感じられる今だからこそ、その味は最強になると思う。そういえばおばあちゃんのお弁当食べたいなぁ。おばあちゃんのお弁当は全部ダイナミックで大きい。卵焼きなんてパンパンだし、おにぎりなんて野球ボールくらいあるし。(*実話です)

でも一番は母のやつかもしれない。なんの変哲もないただ愛くるしいあの箱をもう一度自分であけたい。自分が母親になったらうちの母のようにお弁当をきちんと作ってあげようとここに誓う。

スピンオフ:今日で2月も最終日。大人になるにつれ10月から12月と1月から3月までのスピード感が一瞬。特に今月は寒いなぁ→すこし暖かくなってきたかも…やっぱ寒いとか思ってたら終わってしまった。春までもう少しなのが嬉しいような寂しいような。季節の変わり目どうかみなさんもお体に気をつけて。

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