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大島渚マラソン#01「愛と希望の街」(1959)断絶を描く衝撃のラストにしびれる!(ネタばれ)

いまなぜか、大島渚

始めたばかりの映画レビューをずいぶんサボっておりまして、久しぶりの投稿になります。映画館へ行ったり、サブスク配信映画を眺めたり、相変わらずの生活なのですが、鑑賞後にレビューを書こうと思うまでに心が動かないのです。これは観た作品に非があるわけではなく、私には定期的にあることで、心が塞がって他者の感性をなんとなく受け入れずらくなる期間があるんですよね。

風穴をあけるような何か刺激的な作品が必要です。映画というメディアへのリスペクトをきちんとした作品ではなく、既存の映画を破壊してやろうという乱暴な作品を考えていたら、「バカヤロー!」と吠える大島渚監督の顔が浮かんできました。

大島渚監督と言えば、YMOとビートたけしに夢中だった流れで観た「戦場のメリークリスマス」(1983)の耽美さにシビれたのがリアル体験ぐらいで、遺作の「御法度」(1999)も劇場で観ているはずなのですが印象は薄いです。勉強のつもりで過去作をいくつかレンタルビデオで観ているのですが、観念的な表現と理屈っぽい難解さ、時代背景との結びつきが強いせいで、世代の違うのもが気まぐれでバラバラに観ているだけでは手に負えない作品たちなんですよね。

しかしどういうわけか、そういう一筋縄ではいかない観念的な難解さが刺激として頭に残っており、今それを求めている自分を感じるんです。私の心の中で宙ブラリンのままではもったいない、大島渚の作品世界をこれを機会に理解して楽しめたらなあ、と思います。

大島渚、衝撃のデビュー作!

と、いうわけでデビュー作「愛と希望の街」(1959)を観ていきます。大都会の片隅で、靴磨きのおばさんたちと並んで鳩を売っている中学生の正夫(藤川弘志)。そこにお嬢様女子高生の京子(富永ユキ)が通りかかり、「靴磨きの母(望月優子)が病気のために鳩を売っている」という言葉に感心して鳩を買ってあげます。これをきっかけに正夫と京子の貧富の差を超えた心の交流が、無駄のないシャープな演出でトントン進んでいきます。京子が、貧しい正夫のバラック長屋とか、猫やネズミの死骸の絵ばっかり描いている幼い妹を笑顔で受け入れたり、不良に絡まれ喧嘩して泥だらけになったワンピースを家族に自慢する姿は、見ていてほっこりしてしまいました。

大島渚と言えば難解な社会派というイメージですが、27歳という当時としては異例の若さで監督に抜擢されたこの作品、いかにも松竹らしい家族ドラマを簡潔で瑞々しいタッチでトントン描いていきます。しかしさすがは「怒りと悲しみの映画作家」大島渚、斬新なアイデアに満ちた映像表現にみるみる引き込まれて、衝撃的な展開へと導かれていきます。

世の中に対する絶望をあえて確認するような愚痴っぽい映画は苦手なのですが、ネガティブな内容でも映像的に豊かな表現に触れることで、心が満たされて元気になることがありますよね。これもまた、そんな野心作の一本です。

一方で正夫の担任の秋山先生(千之赫子)は、京子の紹介で、街の大電気製品工場の社員で京子の兄の勇次(渡辺文雄)を訪ね「うちの中学卒業者からも社員を雇ってほしい」と依頼。勇次は最初「会社の方針として街のスレた子供たちは雇わない」と拒んだものの、秋山先生の熱心さ(と美しさ)に打たれたのか「試験的に受け入れを検討してみます」と考えを転向、京子も正夫の将来に希望が見えて大喜びです。そして、秋山先生と勇次の仲も急接近となります。

断絶~勇次のジレンマ

正夫の「鳩を売る」、実はこれ、鳩を売っては逃げて戻ってくる鳩をまた売るという、言わば「詐欺行為」なんですよね。母の入り知恵ではあるのですが、正夫は生きるために「一般的には悪いこと」にも手を出さねばならない側の人間であることの象徴なのです。

高校進学を望む母には「落ちてこい」と罵られながらも、正夫は京子や秋山先生に励まされて勇次の電気会社の入社試験に臨みます。正夫はいい手応えを感じたのですが、学校で秋山先生が受け取ったのはまさかの不採用通知。勇次に詰め寄ると、会社の身辺調査で正夫の「鳩売買詐欺」が発覚したことを告げられ、さらに「恵まれない家庭環境が歪んだ人間性を作る」という勇次の一般論に、彼女は打ちのめされます。

こうしてみると、貧しいものが社会に虐げられるだけの安っぽい物語にも見えますが、大島渚の凄まじさに驚いてしまうのは、この生活環境の異なる人々のどうしようもない断絶感を押し出してくるところなんですよね。

お坊ちゃん育ちの勇次ですが、かつては自分の恵まれた環境への罪悪感から施設でボランティアをするような面もあり、貧困層への理解を示そうとする反面、京子の正夫に対する純粋な正義に対して「あまり深入りするなよ」とたしなめたり、会社の秩序を守るために「貧困=悪」と切り捨てなければならないジレンマを抱えています。秋山先生の貧しい子供たちへの思いに心惹かれたのも、勇次のそんな理解への希望があってこそだったと思うのですが、正夫の詐欺行為発覚で裏切られてしまう結果となります。それでも何とか希望をつなぎとめておきたかった秋山先生とのつながりも、「私だっていざとなったら鳩を売るかもしれない」という彼女の言葉で断絶されてしまうのです。

勇次を残して暗い喫茶店の階段を降り白昼の大通りへと出ていく秋山の後ろ姿が格好良く、果たしてこの断絶によって拒絶されたのはどちらなんだろうって、思わず考えてしまいます。

衝撃のラストシーン(ネタバレ注意)

京子は正夫の不採用を謝ろうと彼の家へ向かうのですが、その途中で彼女が返したはずの鳩をまた路上で売っている正夫に出会います。水臭さに腹立ち「お金が必要なら先に相談してよ」と詰め寄る京子に、正夫はこれまでしてきた詐欺行為をすべて告白して一気に謝罪。裏切られた京子はお金を正夫に投げつけ、「鳩はもう帰らないわよ」と鳩のかごを抱えて走り去ります。

正夫は帰宅すると何かが吹っ切れたかのように、鳩小屋をナタで破壊!その迫力に母も妹もドン引きしますが、これこそ正夫が自分なりの「真っ当な生活」へと向かう決意の儀式なのです。母親も、動物の死骸の絵ばかり描いていた妹に「母ちゃんの顔を描いておくれ、これからは兄ちゃんが働いてくれるからお前のそばにいてやるよ」と告げ、お金持ちの気まぐれな善意に翻弄された家族は「真っ当に」再生されていくのでした。

こうして「余計なことするな!」とばかりに貧困層から拒絶され、取り残された京子と勇次の兄妹。京子は邸宅の屋上で正夫から買い取った鳩を抱え「兄さん、鳩を飛ばすから、撃てる?」と過激な発言。「撃てるさ」。鳩は放たれ、灰色の空に砕け散る。これもまた、自分の「真っ当な立場」を確認するための儀式なのでしょう。眼下には多摩川が横たわり、その向こう岸には川崎の小さな町工場が広がります。なんと過激で素晴らしい、人間同士のやるせない断絶の表現なのでしょうか!

対して向こう岸の町工場で、ドラム缶に囲まれ油に汚れた正夫が、仕事を終えてにっこり微笑んでいるという、ラストカットも胸に刺さります。貧困層も富裕層もお互いを知ることで互いに傷つくという表現もフェアだと思いますし、社会構造をただ批判するのではなく、安易な解決策を示すこともなく普遍的な人間同士の悲劇をいかにも映画的に見せ切ったことが素晴らしいです。

二十代のデビュー作からこれほど過激で面白い構造をもった映画を作った大島渚の才能に改めて驚かされました。今後の作品も楽しみです。

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