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文字の音

 特段このnoteにストーリーなどというものは一切存在しない、ただふと思ったことがあったので書き留めておきたいという私の自己満足noteである。
 よって、構成も何も考えずただ感情の赴くままに書き記すだろうし、書いたあとの推敲もしないであろう。
しからば、これから過ごす数分は私に興味が無い人間にとっては限りなく無駄であるから、回れ右をして地面に落ちている埃でも拾うか、或いは服に付着した忌々しい毛玉を取り除く数分にしたほうが有意義であると言える。

 さて、無駄に長く蛇の足をちょろちょろと書いたが、このnoteはタイトルが如く文字の音について書いていこうと思う。
 私は小さな頃から、文字を眺めるのに夢中になっていたそうで、父親が広げた新聞を朝一緒に読むのが日課であった。
 「あー」
 だの
 「うー」
 だのと声を上げながら眺めていたそうで、当然言葉を理解していない自分のことであるから、そんなことをしていた記憶などはない。
 ただそれを不思議がることも無く父親は一緒になって新聞を読んでいたし、母親も特段気に留めることは無かったそうだ。
 さて、本格的に記憶に残っている物心着いた自分はと言うと、文字に関していえば平仮名や漢字、カタカナを習得するのが同年代の子供達より早く、小学3年生になる頃には高学年の漢字を書けるようになっていた。
 幼稚園時代小学1年生で習う漢字を既に学習していた、という土台はあったかもしれないが、1番の要因は文字に関して多大な興味関心があり、本題とは逸れるが、図鑑や動物記を読むのが好きな子供であったから、早く自分で読めるようになりたいという意識も働いたためではないかと思う。
 本題に戻るが、文字に関して多大な興味関心を抱いたのはなぜか、言語学へ傾倒したという訳ではなく、見たり書いたりする文字そのものに興味を抱いた理由は、音が聴こえるからではないかと結論付けている。
 今、このnoteを書いている時ですら文字から音が聴こえるしそれは読んでいる時も同じである。
 漫画、小説、看板、広告、目にするエトセトラの文字全てから音が聴こえてくるのである。
 言葉にして、否、文字にして説明するのはかなり難しいが、リズムと独特の音が混ざり、心地いい時もあれば心地悪いときもある。
 もっと言えば、文字1文字から音が聴こえてくる、というよりは、文章全体の中にあるキーセンテンス部分がより濃く聴こえ、その他の文は子鳥の囀りのような、ある種BGMといった感じである。
 また、文章や連なる文字にはリズムがあり、時折文章を読みながら或いは書きながら、タッタッタッ、だの、トゥルントゥルンだの、独り言を出してしまう癖があり、これにはほとほと困惑しているし最初は独り言を出していることに自分では全く気が付かず、これまた小学生の頃ではあるが、朝読書の時間に先生から注意を受けたことがあり、この時初めて自認したものと記憶している。
 先生曰く、
 朝読書の時間は静かに本を読みなさい、と。
 しかしこれは私にとっては酷く矛盾する言葉で、読書とは静かなものではなく、絶えず音が自分を包み込み、リズムが頭の中で踊り、云わば文字のミュージカル状態なのである。
 そんな状態だからして、物語が盛り上がってくるとやはりどうしても音がファンファーレの如く鳴り響き、子鳥の囀りがサンバに変わり、必然的に私自身も盛り上がり、リズムをつい口にしてしまう悪癖がついてしまったのだ。
 しかしこれは成長するにつれ収まり、今ではどうにか外に漏れ出すことは滅多になく、かくして'''痛い大人'''にならずに済んでいる。
 これらのことは誰にでもあることだし、みんなそういうものだと思っていたが、文字から音が聴こえる、この文章のリズムが独特で面白い、とまたしても小学生の頃読書感想文で書いたところ、先生に呼び出され
 「一体これはどういうことか、ふざけているのか」
と叱責された経験があり、なぜ怒られたのか腑に落ちず理解もできず、もやもやとした居心地の悪さを抱えながら家に帰宅し、そうか、これはあんまり言わない方がいいんだなと学習した私は以後、このことを誰にも言うまいと堅く決意したところであるが、誰かしら同じ感覚を持つ人はいないだろうかと、この言語化できないもやもやを、少年時代に抱き帰宅したもやもやを誰か分かってくれやしないかと、淡い期待をもやもやと一緒に抱えながら筆を取った次第である。
 さてはて、そろそろ毛玉を取り除く、或いは埃塗れのカーペットにコロコロをかける、そんな取り留めのない数分と同じ時間が経過したかと思うので、この辺りでお暇するとしよう。
 文字の音が、鳴り止む頃だ。

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