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【月か綺麗ですね】

昨日は亡き夫ぽんの62歳の誕生日だった。そして、私は病院の当直室(せっせと仕事)で、夫ぽんが2015年2月20日の夕方にこの病院の呼吸器内科の個室で亡くなって、もうすぐ十年になるのだなあと思いを馳せる。今日は当直明け外来を終わらせて、娑婆に出る。大学のグラウンドの夕暮れの空に、中秋の名月がぽかりと浮かぶ。思わず自転車で海に向けて走る(三重大学の良いところは、海がすぐ裏手に広がること)。海に光の道ができており、満月の下は一段と深い暗闇だ。
夫の余命を感じていた2014年の私の誕生日のときと、同年の夫ぽんの誕生日のときの記事を、Facebookで検索してみる。あの頃の、十年前のひりひりした感覚が蘇る。たぶん、私はつらかっただろう。だけど、あなたといて楽しかっただろう。ひとめあなたに逢いたいよう、でもまだ私はこちら側におるよう。ゆらゆらと光が波に揺れて、でも流れにさらわれることもなく、徐々に高度を増す月光の道の永さ。

・・・2014年5月8日【おめでとうeve~感情の色彩の中で戸惑うスイカ人間~】
「悲しいお誕生日」、と口に出してみる。明日5月9日は私の誕生日だ。去年の私は、こんな状況に見舞われていることなどつゆ知らず、夢想だにせず、のんきに過ごしていただろう。この一年の間に夫ぽんのシビアな肺癌が判明し、夫ぽんと飼っていた黒猫トロ(先代はラブテロリスト、黒猫テロであった)は亡くなり、黒猫チロも随分弱っている。そんなことを思うとなんだか泣けてきて、必要以上にセンチメンタルだ。

「誕生日」に「お誕生日」と、「お」をつけると余計悲しい感じがする。幼い自分が振り返るからか。これまでの自分の誕生日は、嬉しい気持ちの時も、わりと情けない気持ちの時も、特記事項無しでフラットな時もあったはずで、とりわけ誕生日という記念日に力を注ぐわけでなく、やり過ごしてきた。
が、今年は「特別に悲しいお誕生日だ」と口に出して言ってみる。グズグズタラタラと泣けてくる。でも、実際には、現時点で夫ぽんはこの世界に活き活きといるし(只今冬場に雪の重みで大破したビニールハウスの改築作業中)、チロもよろよろながら猫らしく生きているので、別段悲しまなくてよいのだ。
悲しいのは、私の心のほんの一部分が、なんともいえず、泣くだけだ。強い勢いで、駄々っ子みたいに、去年の誕生日の何も気がついていない私に戻してほしいようと、夫ぽんの癌が夢だったらいいのになあ、と泣くのです。一年間の時間経過は、正しいリアリティなだけだとわかってはいるが、まあ、こういう節目に、このあたりをおさらいしておかないと、また固く苦しく塊が大きくなるから、一人ちゃっかり涙を流しておく。泣くという行為は、それなりに防御装置だ。

そんな狭間で、ふと、いきなり思い立って、C.G.ユングの「赤の書」邦訳版(高い!)をAmazonで購入することにした。明日には届くらしい。思いがけず、私は私へのプレゼントを贈ることになった。ちょっと嬉しい。

・・・2014年9月28日【消化と昇華】
「魔王の愛」宮内勝典著(新潮社)読了。帯には〜「戦え!」という神の声がいつも聴こえていた。聖者のなかには、ちいさな悪魔(デモン)がいた。非暴力運動の指導者、インド建国の父、マハトマ・ガンジー。あなたは、最後まで屈しなかった…魔王=ガンジー、その多面的な実像に迫る長編小説。〜とある。ガンジー、その名前は知っているけれど、これまであまり目を向けたことがなかった。非暴力の抵抗というキャッチフレーズにどこか胡散臭さを感じ敬遠していたのかもしれない。でも、この著者による、ある種の癖のある独特な手法でのガンジーとの対話的小説を読み、疑惑が熱く氷解すると共にひとりの生(せい)が立ち現れ、消化と昇華が同時に私の中で起きた。

昨日はおやつにおさつコロッケ(ベーコンとタマネギを炒め、蒸したさつまいもを潰し合わせた)、夕飯は豚肉合鴨肉ニラ豆腐白葱白菜鍋。

夜間になり、夫ぽんが38度近くまで熱発し、うーんうーんと苦しそう。肺癌stage4に対して抗う化学療法の影響で、白血球が1680と下がっていたから、実に発熱しやすいコンディションである。心配であるが過剰に反応せず、サラッとした態度でいたら、夫ぽんは自分で、抗生剤と解熱剤と栄養ドリンクを飲み、布団をかぶり、「なんでわちはこんな目にあわなきゃならんのや〜ちま(妻)がイジメる〜」とぶつぶつつぶやく。八つ当たりされた私は「ちまがイジメるとか言うから、ちまの生き霊が本当に憑いて、もっと熱を出させてやれ〜とますます意地悪するんだよ」と言い返しつつ、夫の背中をさする。体調が落ち着くまでそばにいる。いつしか眠る。
朝起きると夫ぽんの姿はなく、どうやら熱が下がり、出合(自治体の草刈り作業)に出かけて行ったようだ。「薬とドリンクが、草刈りしました。」とメールが来る。律儀さの発揮具合が実に夫ぽんらしい。

夫が帰ってくるまでのひとりの時間を、今日は夫ぽんの誕生日なので、どう祝おうかシンキングタイムとして使うことにしよう。ということで、のんびりのどかにヨーガ(動的瞑想)に取り組む。

今もあなたは私を視ていてくれるねえ、きっと。私は海沿いの堤防で自転車に跨がったまま、海と夜空と月の光を眺め、散骨用に持ち歩いている夫の骨片を、口に含み舌に乗せ、満月に向けて、あかんべーをした。

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