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【ころころころな】

春の芽吹きに、心踊る。5類感染症規定になったら、どう転がっていくのかなあ。新型コロナウイルスが、我が世にやって来た時の記憶を、ひとつ辿(たど)って置く。

2020年3月某日
【共生共存共依存】
日曜日は天気も良くて、ひとけの少ない公園で、珍しい色の鳥(キビタキかな?)を見かけて、目が合う。桜のつぼみがまもなく開きそうだ。春がぐんぐんと色づき、息を吹きかえしてくる。

新型コロナウイルス(無生物だが実存)を現象として考えたとき、人類が活動を休止(一斉に一時停止)している間に、野性動物や、海洋生物、植物達は生命活動がのびのびと行えているのではないか。鉱物の採掘や山の切り開きも下がり、工場や生産や交通量が低下することで、はからずとも地球温暖化的なものに歯止めがかかり、空気は浄化される。地球上のすべての生命体および物質が共存共生していくための、地球側の意志のようなものではなかろうか。今、地球が一番安心して深く呼吸ができている。地球は人のことも、ウイルスのことも、すべての地球を構成する多様な存在や成分を等しく愛している。
今後、人間は子供たちを自然のなかで遊ばせ、高齢者を大切にして、お互いがお互いのことを思いあい、地球上で自分にとっての大事なことを見つけ、それを愛して育むだろう。
人間にとって、文化や文明、歌や踊り、劇、陶芸、思想、お金というものの本質的な意味、命をもらって食べること、その土地に生活すること、息をすること、生きているということ、人が人と会うということ、手を繋ぐこと、手当てすること、語り合うこと、様々なことがより深く体験されてゆくのではないかと思う。

と、夜中に目が覚めたときに急に思いついたので、書きとどめることにしたが、昼間に読んだら、やっぱりやばいわ、私、と思うんだろうな。もうここのところ、ずっと私と新型コロナウイルスとの間で当事者研究にはまりこんでいるよなあ。でも、なんとなく、この辺り(当たり?)にたどり着いて、いったん我が呼吸も深くなったのだった。


この頃はコロナフューチャーされてなかった。
2016年2月某日
【霊魂の案配】
今日は香り溢れる豆乳味噌汁を作った。短冊切りや一口大に切った春ウド、牛蒡、椎茸、人参、大根、キャベツ、豚薄切り肉、剥き海老を、重曹を混ぜた豆乳、すりおろした生姜とニンニク、すり胡麻、味噌、取っておいたおでん出汁、日本酒で煮る。
まずはそのままで一杯、あとは仁淀川山椒、花椒、鷹の爪、黒胡椒、柚子胡椒などを入れながら、味をかえて食べた。ふわりと春の息吹を感じつつ、ぽかぽかしてくる。

霊魂について考える。3月11日震災のあった東北では、よく視られるらしい。夏でも冬服を着たお客さんが、海岸や津波にさらわれた街角を指定して、タクシーに乗車し、気がついたら姿が消えているという。メーターを倒しているから、無賃乗車報告として実際に記録されている。
現世はクローズド・サークルと昨晩は記したが、思うに生命は死に至るとともに、別次元で住まうようになり、こちら側と重なりあいながら、存在しているのかもしれない。この世界はある種の多重層な開放系装置であり、霊魂も行ったり来たりしているのだ。実は夫ぽんが亡くなって以来、そんな気はずっとしている。そう、香りを嗅いだときのように、目には見えなくても、あるのだよ。

よく怨霊だとか下級霊だとかいうけれども、現世に本当は上等も下等も無いように、それは受け手の勝手な決め付けだと思う。霊の姿が怖かったり、うらみごとめいた嫌なことを言われた不快さから、相手を悪者だと設定して身を守ろうとしてしまうのだろう。しかし、それはこちらの認識や感情が投影されているだけで、幽霊の善悪など無いのだ。

私はもし(死んだことをちゃんと自覚しているだろう)夫ぽんの霊魂が可視化されて、眼前に現れたとしたら、はじめは驚けども、ああそうかと納得し、夢枕に立ったくらいじゃ気がつかない鈍い私に、何かわざわざ無理して伝えに来たんだろうなあと想像するに違いない。
今のところ夫ぽんの幽霊は現れていないから、私は夫ぽんの微細な思惑を、視えないままでも適切に捉えているんだろう。そう信じて、お骨の祀られた祭壇に線香をあげて、また一日が過ぎる。


夫ぽん同年2月に亡くなり済み。
2015年5月某日
【しのぶれど 色に出にけり】
昨晩は早く寝なくちゃ休まなくちゃプレッシャーで、かえって家で独り呑みをはじめてしまい、夜中1時を回って横になるも、うとうとと目をつぶっているだけで深くは眠れず、朝6時に身体を布団から無理矢理引き剥がす。
朝っぱらから、大量の瓶ゴミ(この2ヶ月に散々飲んだワイン、ビール、日本酒、焼酎、泡盛、洋酒、炭酸水などの空き瓶だ)を両手にずっしり持ち上げて、酔拳の修行のごとく、腕を張ってプルプルさせながら、80メートルばかり離れたゴミ捨て場まで2往復する。ガチャンガチャンと瓶がぶつかり合う。割れることなく、音を立てるのみだ。たいがいな重さと量にうんざりするが、無事捨て去った。

・・・ああ、それなのに、今晩も瓶を空ける。飽きもせず、飲めば呑むほど、体の芯が凍るような震撼を覚える。
お風呂に湯を溜めるため、浴場に足を踏み入れたら、びちゃっと素足とズボンの裾が濡れた。その足取りでリビングに戻ると、絨毯の上に直置き(じかおき)していた、炭酸とラム酒の入ったコップを倒し込み、慌ててタオルで覆うも、水浸しになった。赤い絨毯が黒っぽく沈む、5月の夕暮れ。

我慢なんて死んでもしたくないから(それくらいの覚悟をもって宣言しないと、我が国の伝統的土壌に渦巻く、忍びがたきを耐え忍べ美徳オーラに飲み込まれそうになるのです)、軽度な哀しみと重度な不安定さを誘い込み、もろともにどうしようもなく我が儘でいこう。
足元は千鳥足かな、そんなことはなく、凍てつく地面の延長で、足がすくんで棒のようだ。春なのに、春だからこそ。「我が恋は ものや思ふと 人の問ふまで」

あ、本日の外来診療の混雑は存外サクサクとスムーズに終わり、喉元過ぎれば熱さ忘れた。そして睡魔が大軍を率いてやってくる。


・・・春は恋の季節です。



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