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画面越しでも名月なのか?

皆さんごきげんよう、ぱんだるまです。

最近大学では2学期が始まり、履修登録だのレポートだのに追われて、気づけばもう10月の日付も二桁に。いやあ、時が進むのは早いものですなぁ。


そんな話はさておいて、少し前にふと思ったことをお話ししたい。


少し前、と言ってもだいぶ前の話ですが、今年は9月21日が中秋の名月でしたね。

なんでもこの日と満月が重なるのが何年振りかとかで、ニュースなどでもよく耳にしました。

家族でも、みんなで散歩がてら見に行きたいねー、なんて言ってたのに、気づいたらみんな入浴済み。すっぴんにパジャマで外など歩けようか。いや、歩けまい。でも、一年で一番別嬪さんな月を拝まぬわけにもいかない。


というわけで、各々マンションの廊下から、手が空いた時に外を眺めることに。夜もいよいよ深まりだす十時過ぎ。私も、少し肌寒くなったからと少し厚手のパーカーを羽織ってスマホを片手に、サンダルをつっかけて外廊下に出ました。

我が家の玄関は北北東くらいを向いているので、出がけのお月様に会うのも難しいし、かといって少し時間をおこうと思うと、気づいたときにはマンションの向こう側に姿を隠してしまう。


その日は、ギリギリマンションに隠れる前のお月様を拝むことができました。いつにも増して煌々と光を放つ月は本当にきれいで。

気づけば手元のスマホでカメラを開き、パシャパシャと連射していました。少し前にTicTokでよく見たきれいな月の撮り方を、何度も何度も試しました。これがなかなかうまく撮れない…


撮れないなぁ…


待てよ。これは本当に名月を見ていることになるのか?

私は画面越しの月を見て、それを保存しておきたいがために写真を撮っているが、これが本当に私のしたかった”中秋の名月を見る”ことなのか?

確かに画面越しでも、他の日に撮る満月より明るく、輝いてはいました。しかし、この特別な日に私は普段と変わらぬことをするのか?



その時私が出した答えは、否、でした。

すぐに構えていたスマホを下げ、今度はフィルター越しではない、正真正銘の中秋の名月と対面しました。

心なしか、より優しく柔らかく、そして神々しく見えました。

画面越しの肩身の狭そうな満月なんか比べ物にならないほど、”名月”でした。



日頃の自分を思い返してみると、スマートフォンを手にしてからというもの何か見つける度に写真を撮っていることに気づきます。

しかもたちが悪いのが、私はほとんどと言っていいほどカメラロールを見返しません。いやはや、何のために写真を撮っているのか。一応インスタグラムもあるのですが、なんせ投稿するのがめんどくさい。いつかやろうのいつかが永遠に来ない。その結果、似たような写真が積もりに積もり、私のスマホのメモリーを圧迫している。こうやって改めて書き起こしてみると、全くと言っていいほどいいことないですね。

そういえば最近親しくなった大学の友達にも、ほんとに写真良く撮るよね、とふとした瞬間に言われたことがありました。その時に撮ったものも、未だに日の目を見ていません。今後も恐らく見ることはないでしょう。



心動かされた瞬間をカメラで写真に収めようとするのではなく、その対象と私とだけの世界に入って感じたものをじっくりと味わえるような、そんな風流な(?)大人になりたいものです。

そんな瞬間をこのnoteに文字で表す方がよっぽど有益ってもんですよね、まったく。


というわけで、風流な大人への第一歩として、まずはカメラロールの整理から頑張ってみたいと思います。いつ終わるかなぁ…(遠い目)





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