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読切小説/父と母の話_20210812

庭に一っ匹の狸がきている。

立派な雄狸で、四肢は隆隆として、毛並みは狸とは思えないほど黒々として艶がある。いくら寂れているとはいえ、教会の境内に獣が現れるのは、よっぽどの理由があるのだろう。

しかし、私には理由が分かっている。奴は私に会いにきている。

奴は端の茂みの中で、まるで犬のように前足を揃えて行儀良く座りながら、蒼く見える不思議な瞳を真っ直ぐに私に向けている。私も自室の窓辺から何となく奴を見ながら、お互いに見つめ合ったまま午後の時間を過ごすこともあった。

ある日の午後、私は窓を開けて微睡んでいた。確か何かの用事で、家の人間はみな出払っていた。夏の盛りを過ぎた頃で、まだ蝉は鳴いているものの外は幾分も涼しくなっていた。その日も部屋に吹き込む風が心地いい。

不思議な眠りだった。眠りながら、外が暗くなり、誰かが近くにやって来たのが分かった。体が重い。まるで底に沈んでゆくように体が重く、寝返りをうとうとしても動かない。それでいて何故か頭は冴えている。眠りの中だというのに、自分が今眠っていることが理解できる。

不思議だ、と思っていると。近くにいたものが私に触った。

「ああ、お前か。」

「お久しぶりでございます。」

10年近く前、私は子狸を助けたことがあった。水路に落ちて、濡れたまま衰弱していた子狸を拾ったのだ。逸れたのか気づかれなかったのか、周りに親狸や兄弟がいる気配もない。あまりにも弱っていたので、そのまま数日、物置に隠して餌をやったりし見届けていた。幸いすぐに回復したので、私は拾った側の茂みに子狸を戻すことにした。他の獣に手を出されはしないかと心配になり、10分も経たずに見に戻ると、子狸は消えていた。

「私を見ていたのは、やっぱりお前だったのか。生きていてよかった。」

「貴女様に助けていただき、生きながらえました。貴女が私を抱き上げたあの日から、私の命は貴女のものです。ですが、天からの寿命の前には如何なるものも逆らうことが出来ません。私も例外なく、まもなく迎えが来ようとしております。本当ならば、貴女がもっと大きくなられてから訪れたかった。ただ私にはもう時間がありません。いま、私の命を貴女にお預けしたい。」

そういうと、触れていた手がするりと私をなぞった。そうして私の身と心は深い世界に落ちていった。

そこは何も見えない遠い遠い世界だった。

ここには私と奴しか存在しない。お互いに姿は見えないが、触れあっていることだけは分かる。奴は黒く、私は白い、ふたつの異なるものが絡み合い溶け合っている。あたたかい、これが命の温もり、これが生の喜びか。

どのくらいの時間、それが続いていたのかは分からない。段々と体が軽くなって、意識も自分の元に帰ってくるのが分かった。私は言った。

「行かないで。」

その時、一瞬だけ人間の男が見えた気がした。その男は真っ黒な髪に蒼い瞳をしていた。男は言った。

「もう迎えが参ります。10年後、貴女は私の子を孕みます。私の名は・・・」

私は目を覚ました。私は薄く汗をかきながら、いつもの部屋でひとり眠っていた。

10年後、24歳の私は子供を産んだ。元気な男の子だった。その子は赤子とは思えない黒々とした髪の毛と、蒼味がかった目の色を持っていた。

信仰深い私の家族は、父親のいない子供を産むことをよく思わなかった。さらに生まれた子供の目の色を見て、絶句した。このことで、私と家族は縁を切ることになった。

でも私は構わなかった。この子は、私が唯一心を通じたひとの子供だ。

絆は血の繋がりよりも濃い。

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