訃報に際して。

仕事終わりにスマホを開いた。
ある芸能人の訃報が目に入った。
言葉を失った。
鳥肌がたった。
喪失感に襲われた。

なんで…と衝撃を受けた。
ただ、同時にその一因が頭に浮かんだ。
心当たりがあった。
ああ、あれだけ叩かれていたもんね、と。
そう思ってしまった。

日々、ネットニュースのコメント欄やSNSで、
その方が叩かれている様を見つつも、
まさか亡くなるとまで考えられなかった。
想像に及ばなかった。

例えば、道端でいじめが行われていたとする。
1人が複数人に石を投げられていたとする。
きっと止める勇気がなくとも、私の心は痛むはず。

けれどネットでは別だ。
他人だとはいえ、
残酷な攻撃に不感症になった自分を知る。

「きっと大丈夫」なんてバイアスをかけ見てみぬふりをしてきたくせに
亡くなった知らせには一丁前に心を痛める。

「そんなふうに見えなかったのに」
「そんなに傷ついているなんて知らなかった」
「彼/彼女なら大丈夫と思った」

どの口が言う。
どの口が、言っているのだろう。


気持ちは繊細だ。
存在は儚い。
命は、あっけない。

その上で、人がその存在を自ら消したいと思う時。
それは本人の気持ちが弱いからではない。
自分を、大切にしてきた考え方を、価値観を、人を守りたいから。
これ以上、奪われたくないから。
これ以上、失いたくないから。

宝物のような記憶をいつまでも携えていたいから。
自分の大切なものやことや人、正しいと思う考えなどを貫く、強い気持ちからできる決断だと。

そんな風に私は信じていた。信じたかった。
命を絶ったことはないけれど、
何度も何度も絶ちたいと思って試みた経験からそう考えたかった。
だから、自ら命を断つことは、必ずしも悪いことではないと。

けれど。
今日の衝撃はなんだろう。
この悲しみと喪失感の正体とは。
また、分からなくなってしまった。


生きるのことと死ぬこと。
その意味づけは自分でするものだと、死生観を問い続ける日々の中で、結論づけたはずなのに。
その幕引きも自分ですべきという考えに、行き着いたはずなのに。


やはり、死は、いや存在の消失は悲しい。
周囲の人間にとってはもちろん、生前一度でもその人に関わったことごあれば、何かしらの気持ちにとらわれるケースが多い。

だから、死は悪いことなのだろうか。
私は、その芸能人が亡くなって、無責任にも悲しかった。

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