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だいすきなぱぱが亡くなる前のお話

だいすきなぱぱは、今年の5月に肺がんで亡くなった。
いまだにふと思い出すと泣いてしまう。
あったかもしれない未来を想像して、それがもう叶わないことを実感して、悲しくなる。
ぱぱは亡くなるまでの1ヶ月間、自宅療養をしていた。
宣告された余命を受け止める暇もなく、急遽実家でテレワークをして一緒の時間を過ごした。
そろそろ死んでしまうかもしれない恐怖と、ぱぱや家族の前では泣かないようにできるだけいつもどおりに過ごす生活は、悲しくて仕方がなかったけれど、今思うとかけがえのない時間だった。
毎晩こわい夢を見ていた。金縛りになった日もあった。でも、あの時はぱぱは生きていたんだ。ずっと傍にいれたんだって思うと、あの時間に後悔はなかった。

余命が宣告されたのは、恋人と同棲しようって話が決まったすぐ後だった。
私はぱぱと、バージンロードを歩くのが夢だった。ぱぱは足を痛がっていたから、歩けるうちに結婚しなきゃと思っていた。
この話を恋人に伝えて、結婚を前提に同棲する話がでたばっかりだった。
まだ大丈夫だと思っていた。
肺がんは、がんは、信じられないはやさで進行していた。

今はコロナ渦で、病院の面会は2人1組、1日2組までの1回30分だった。
最期に看取るときも、人数制限があった。
家族で看取ると決めていたから、在宅医療に切り替えた。
在宅医療は本当にすごくて、SMSで先生に相談できて、看護師さんはいつでも来てくれた。
母は起きてるときも寝ているときもずっとぱぱと同じ部屋にいた。
ソファで寝てたから、寝るときくらいベッドで休んだら、私がソファで寝て何かあったらすぐ呼ぶからと思ったけど、母が今1番したいことはぱぱの傍にいることだって思ったから何も言わなかった。
ぱぱは在宅医療に切り替える前の入院のときから食べれなくなった。
飲み物も飲めなくなった。
食は前から細くなっていたから痩せていたけど、本当に骨と皮くらいに痩せた。
寝てる時間がほとんどになって、お見舞いに行っても寝ていた。
でも、きっと声は聴こえていたと思う。手を握ると、いつも握り返してくれた。
それは在宅医療になってからも同じだった。
ぱぱは在宅医療になるまで、友達や会社の人にがんであることを伝えていなかった。
本当に一部の人だけに言っていた。
言いたくないって言っていたから。
でも、最後は知っていた友達らが抱えきれなくて他の人に伝えたり、会社の人も同僚に伝えたり、母から伝えたりで、お見舞いにはたくさんの人が来てくれた。
私達家族のことも気遣ってくれて、たくさんのパンやお菓子、おにぎり、手料理のおかずをくれた人もいた。
それだけぱぱは周りから愛されていて、ぱぱの周りにはすてきな人達がたくさんいた。
ぱぱは本当にいい人で、だいすきで、しょうがなかった。
ぱぱはせん妄が始まってひどくなっていたけど、ふらっと起き上がってベッドから落ちたら大変って家族みんなが焦った瞬間、手が空いていたのは私だけで咄嗟にぱぱのベッドに腰掛けて落ちないようにした。
その時お弁当を食べてて持ったままだった、食べてる私をみて、いつもの優しい表情で美味しい?って聞いてきた。
声はほとんどかすれて出てなかった。けど、せん妄がでてる時の目じゃなかった。
この時のぱぱの顔と声と、今でもフラッシュバックする。

そんなぱぱも、中治りがあった。
亡くなる前の土曜日だったか、休みの日だった。
恋人が来てくれてたから外でお昼を食べてて、帰ったらぱぱのお見舞いにきてくれた人がちょうど帰るとこで。
ぱぱはアイスが大好きだったから、もう食べれなくて飲めなかったけど、舐めるくらいなら、それで美味しさを感じてもらえたら楽しみになるってお医者さんが言っていて、アイスボックスを買って帰ってた。
ぱぱは起きてて、それを見せたら笑っていいねぇと言ってくれた。
その後もお見舞いの人がきてくれたけど、ぱぱは起きてたらしい。
中治りがなくなると、ぱぱは悪化した。
苦しそうで、鎮静したほうがいいとのこと、薬を入れてもらって昏睡状態になった。
こうなるともう、手を握っても握り返してはくれなかった。

ぱぱは早朝に亡くなった。
寝るときから血圧は下がっていて危なかった。夜中に母が部屋に入ってきて、入ってきた瞬間にどうしたって飛び起きた。
血圧が測れないと言うので、試してみるとかろうじて測れた。
けどすごく低くて、その日はソファで寝た。母は起きてたけど、ほんの少しだけ椅子を並べて寝たらしい。
次母に起こされたときは、もう呼吸はかなり少なかった。
兄も来て、ぱぱを囲んだ。
最期は息を吸って、そのまま亡くなった。はいてほしかったのに、はいてくれなかった。
しばらく茫然としてた。
母は在宅医療のお医者さんに電話したりしていた。

お葬式は1週間後。葬儀が終わるまで、会社は休んだ。
お葬式には、病気のことを伝えていた友人を呼んだ。
伝えていなかった子もいたけど、呼びたかった。
私はあまり家族に友達のことを話さなくて、結婚式で友達を呼んで、すてきな友達がいることを両親に知ってほしかったから。
叶わなかったけど、お葬式には友達がほとんど来てくれた。
供養の食事もしてくれて、恋人や幼馴染は最後までいてくれた。
告別式は、お葬式よりつらかった。
食事は手が震えて仕方がなかった。
最後に喪主の母が挨拶したあと、ぱぱの高校生からの友達が、お見舞いにきてくれたときも、亡くなってその日に駆けつけてくれたときも泣いていなかったのに、涙をハンカチで拭っていたのが目に焼き付いてる。
家に帰ったときの、とんでもない疲れと身体の重たさは、今までの人生で最もひどかった。
無気力で、重くて重くて、虚無感で。

ぱぱに会いたい。


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