人生の選択を正解にする
5年前、視界に入る幼児たちをみて
『うわ!立派に子どもだ!!本当にあんなに育つのかな?』と、
抱っこ紐で繋がれたフニャフニャの娘と見比べました。
そして今。
私の目の前には立派な5歳児がいます。
この5年で娘は立って歩き、ペラペラ喋り、知らない間にスキップを覚え、文字まで読み始めました。
その横には、少し小さい3歳児が。こちらも、ペラペラとよく喋り、自分は5歳児だと思って生きています。
世界が広がった1年間。
一年前。
長女が幼稚園に入園する時、どうしようもなく寂しかったことを思い出します。
これから親の、私の知らない経験を山ほど積んでいく我が子。その姿が見れないことが寂しく感じました。
しかし、この一年で『この子の目で見ている世界がある』と知り、それが事実かどうかに関わらず面白いと思うようになりました。
そして、私も『娘以外の幼児』を見ることで、幼児にも色んな幼児がいる事を知りました。
極めて標準的な5歳児だと思ってた私の娘は、どうやらかなり『挑戦に貪欲なタイプ』だったようです。
日本の文化に合わせて『ワガママですみません。』なんて口に出しつつ、何でも意欲的に挑む娘の姿を誇らしく思います。
一方、次女は、スーパーで泣き叫び転げ回るような『ザ・幼児』
我が子だなんて信じたくありませんが、私の足元にいるのですから信じるより仕方ありません。
性格の違いか?
私の育て方か?と思ってはみたものの。
生まれた時から、欲しいものを暴力的に横取りされる環境では最大の自己表現の『泣き喚く』に頼るしかないのかもしれません。
同じ頃の長女と比べて、トイトレも進まず、お箸も持てず、ひらがなも読めない次女。
『手をかけた時間』の差を感じては、1人情けなくなりますが、その代わりハサミを操り、ジャングルジムの上に立つ姿に逞しさを感じます。
子どもを育てるのは親だけではなく。きょうだいや環境。産まれながらの性格もあるものだと…ん?これは言い逃れ??
とはいえ、体力に加え、したたかな行動と姉を上回る自己主張。無邪気な笑顔は大物感を感じます。
今改めて思うこと
先日、奔放な次女を連れて、幼稚園で行われた長女の誕生日パーティーに参加しました。
クラスの子の前に座りインタビューを受ける娘。
『それではママにも聞いてみましょう。どんな子に育って欲しいですか?』と、先生。
『元気で、何にでも積極的に…挑戦して。。何かに夢中になれる…優しい子』
娘を前にして。
たどたどしく私の口から出た言葉は、
今のままの娘を形容していました。
そうか。
この子はこのままでいいんだ。
いや。それも違います。
家に帰り、お風呂に入ってポツリ。
『このまま』じゃなくていい。
『この子らしく生きてくれれば。それで良い』。
そうなると私にできることは、
『ただ信じる』だけ。
子育ての礎
平日の昼間、娘たちと過ごしていると『お仕事は?』と聞かれることが、多くあります。
育休を最長期間とっていることは、時に後ろ指を刺されているような感覚がします。
『いいわね。』という言葉を嫌味に受け取ってしまうのは、私の中の『世間一般』と『苦労神話』が何かを語っているように思いました。
しかし、実際は人生で最高の選択をしたと自負しています。
一番『抱っこして』
一番『手繋いで』と言ってくれる時期を
鬱陶しいと思えるほどに一緒にいられる。
子を持って、これほどの財産はないと思っています。
自分の選択を正解にする力
人生の岐路に立った時、この先に続く『答え』を正解にするには勇気と覚悟が必要な気がします。
私が育休の期間に失った賃金もキャリアも、取り戻すには大変な体力と気力が必要なことは明らかです。
『ない』に目を向ければ間違いだらけの人生。
しかし、『ある』に目を向け、幸せの数を数えれば、簡単に人生は正解だらけになります。
私はこの期間、日本中、そして世界に知り合いを増やし、様々な学びと挑戦を繰り返しました。
広い世界においては、とても狭く小さい経験かも知れませんが、それでも『育休中のお母さん』としては、『そこそこ豊かな人生』を送れたと思っています。
学問を生きるということ。
娘の長所を見つけることも。
子どもを『信じる力』も。
今を正解にする秘訣も。
どれもありきたりかも知れませんが、
私は全て育児と共に始まった学びから得ているように思います。
乳児と幼児に挟まれて、夜な夜な世界と繋がった日。
『強みの力』に共鳴し、ひたすらに続けてきた学び。
乳児が幼児となった今、改めて
『ポジティブ心理学を生きたい』
娘のために。私のために。
そんな世界と出会えた事に感謝をし、自分が選んできた過程が、ようやく真っ直ぐとした道に見え始めました。
知識欲だけを満たすのではなく、実践し『私』にしていく作業がこの先も待っています。
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