見出し画像

もう、「優等生」はやめにしない?



就活とか、インターンとか、頑張るのを辞めた。
考えてみれば、今までずっと優等生だった。
中学のときも高校のときも、勉強していい成績をとって、いい高校、大学に行くことばっかり考えていた。

「優等生になる」ことが、本当は何も無い私を「特別な存在」にしてくれたから。


大学に入って、大学2年からインターンとかを意識するようになって、面接を受け始めたのも「優等生を演じていた」からだ。私の好きなインスタグラマーは、大学生活を「世間一般的にみて」有意義にさせる投稿をしている方たちだ。もちろん投稿はとても参考になって、彼女たちが言っていたしやってみよう!という理由で資格を撮ったり、インターンに応募するきっかけとなった。
彼女達のことは本当に尊敬しているし、憧れもある。

だが、気づいた。
彼女たちは本当にそれで充実しているから発信してくれているだろうが、それは、世間一般的にみてもえらい!と言われるような生き方である。それを、好きなインスタグラマー達がやっていたから!という理由の裏に、世間一般的にみて「優等生」だからやるという理由が隠れていないだろうか。

この前読んだ小説で、「丁寧な暮らし」というインスタのハッシュタグに無意識に囚われ、つぶされそうになっている主人公がいた。彼女はその後自分の本当の気持ちに気づき、自分をとり戻していた。


私も全く同じ状況だった。

大学2年生のうちからインターンに参加する「べきである」という世間から優等生とされる行為を無意識に取ろうとしていた。
本当に参加したいのならそれは自由だが、正直別にアルバイトとして働くのでもいいな、と思いながら、でも大学2年なのにインターンに応募する方がえらいから、「特別な人」になれるから、という理由で応募しようとするのは囚われている証拠である。

中学生から8年間被り続けてきた「優等生」の仮面を取ろうと思う。

優等生じゃないと、みんなとは違う優秀で「特別な人」と思ってもらえないんじゃないか、私は普通で平凡な人間だと認めなくてはいけなくなってしまう。
それが怖かった。

でも、だからなんだ。
普通で平凡で何が悪いんだろう。
好きなことをして、毎日楽しく生きることの何が悪いんだろう。

自己肯定感という言葉を最近よく聞く。
自己肯定感とは、「𓏸𓏸やってる自分偉い!頑張ってる自分偉い!もっともっと素敵な女性になれるよ!」と思うことじゃない。
それも大事だけど、
本当の自己肯定感って、「頑張ってない自分もえらい、話すの得意じゃないし、飽き性だけど、そんな自分もいいよね」
って自分のだめなところもみとめてあげることだと思う。

みんながみんな、偏差値30の高校から東大に逆転合格できるわけじゃないし、世界的なファッションデザイナーになれる才能も持ってるわけじゃない。
インターン応募しても5社中5社お祈りされるし、集中力がすぐとっちらかっちゃうし飽き性だけど、それが私だ。


別に新卒で入社しないと死ぬわけじゃないし、インターンしなくたって生きていける。



優等生はもうやめよう。



だけど、そのかわり、自分がやりたいと思ったことには心からちゃんと向き合おう。

そして、自分の普通の日々を、普通なりに愛そう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?