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映画:感想『太陽の塔』

10年ほど前から、大阪万博の年に物心ついていて万博へ行けていたらどんなに良かっただろうかと、持っていてもしょうがない後悔に似た思いを私は持っていた。
現在30代の私は、生まれてすらいないのだから、それはそれはお門違いの後悔なのだが、どうしても、万博の一部だったころの太陽の塔…地下から胴体を上がって腕から屋根へ出る、その全てを見てみたかったと思う。そしてそれはもう叶わない憧れとなって、ふよふよと漂い続けている。

岡本太郎生誕100年だった2011年当時にやっていた100年事業の一年間では様々なイベントに行きまくったが、江戸東京博物館で見た、「当時の」太陽の塔の上の金色の顔と、万博当時の太陽の塔のパンフレット…それを見た時が最も胸が詰まった。繰り返すが、本当に、当時の完成形の状態で、見たかったと思う。

あと、21世紀少年の映画が公開になった時、メイキングのTVの特集で、確か唐沢寿明か誰かが、限られた人間しか入れない、ヘルメット必須の立入禁止だった塔の中…そのころにはすでに崩れてしまっていたものも多かった…に入っていく映像が流れた。

もう40年が経過しようという頃だった、それなのに、暗く所々崩れ落ちているのに、こいつは…太陽の塔は、いつかの来るべき時のために眠っているだけだ、眠りにつきながらも熱い魂を失っていないのではないか、体内には血が流れているのではないか…という予感を感じさせるような。

そして2016年の改修前内部特別公開と、ついに始まった耐震工事。パビリオンの屋根はない、地中も埋め立てらえている…しかし、太陽の塔は静かに、でも確実に鼓動を速めていて、そしてついに2018年、半世紀の眠りから息を吹き返す。あいつは間違いなくこの時を待っていた。私も、待っていた。

どうしてもドキュメンタリー系でちょっと苦手なのが、入ってくる言葉や情報量が多すぎて、私の脳内処理が追いつかず、ものすごく疲れる、という点で、今回も、大変に集中して観たので疲れ切った。だが、非常に充実した疲れ。

映画では、その太陽の塔に様々な形で関わっていたり関わっていなかったりする人々が、自身の知見の立場から、様々に太陽の塔や岡本太郎について語る。
不思議なのは、…元々事業や岡本太郎の周囲の関わっている人々は、同じテーマやコンセプトを共有しているはずなので、同じような言葉が出てくるのはわかるが、しかし、映画の中の多くの、事業や岡本太郎と直接の関わりを持たない人々も、時に同じ言葉を使う。同じ感覚や見解を語る。
打ち合わせも台本もないインタビューでそれが起こる…それは、岡本太郎が、太陽の塔を通して伝えたかったメッセージがあまりに明確で1本通った筋があり、それはすべての人間が持ち合わせている根幹であり、それを時代を超えても薄れることのない熱さを太陽の塔に込めている証であると思った。そして、その通り今も太陽の塔は生きている。

昨今、よく、息苦しい生きにくい現代社会について叫ばれている機会が多い、と私は感じている。

笑いを笑いと理解せずに批判をぶつける、
言葉の表層だけを捉え、意図を理解せずに否定する、
匿名であることをいいことに安全な場所から心無い言葉を投げっぱなす、
たった一度の過ちを取り返しがつかないように相手を追い詰める、
やりたいことをやりたいと言ってもそれを取り上げて喜ぶ人がいる、
力の弱い相手にマウント取って快感を得る…

…そんなものに全てNOを突き付けて、なんなら現代社会そのものにNOを突き付けてきて、「人と生まれたからには、すべてを爆発させて、生きてる意味を突き詰め、自分がすべきことを表現し成していく人生を目指していけ」…そんなことを、岡本太郎が、太陽の塔を通して迫ってきている気がする。

私が、太陽の塔に果てしない憧れを持つのは、そのためかもしれない。

あいつは、万博が終わっても唯一、当時の形を残し、なおかつ、当時の形で今も現代社会と関わりを持っている。
EXPO’70 パビリオンなど、当時を伝えるものも、確かに、今もわずかに残っている。だが、それらはもう当時、誰かが伝えたかった「進歩と調和」を伝える役割は終えて、当時を伝える「資料」としてだけ息づいている。

しかし、太陽の塔は違う。

千里の丘の上から、今も難しい顔と虚無の顔を世間へ向けて、何か伝え続けてくる。お前はそれでいいのか?生きるべき道を生きているのか?人間とは、その根源を見失ってないのか?…と。

当時の最新を伝えていたはずのものは当の昔に処分されてしまったにも関わらず、人間の根幹・起源を問うた、べらぼうな存在だけ、人間は壊すことが出来なかった。そしていまだに、しかも現役で、問い続けてくる。

周りの人間の意識は変わった。でも根源は変わらない。
太陽の塔は変わらない。でも現代人への問いかけは当時とはきっと違う。

なんと皮肉で、象徴的かと思う。

私も現代を生きる生物の一匹として、概ね80年くらい生きると言われる生物として、もうすぐ折り返し地点にたどり着こうかというところまで来た。

では、自分のしたいことを突き詰め、追いかけ、表現し、今日一日を必死に生き、自分の本質に迫っているのか…もう、立ち向かう時に来ているのだと思う。私の中にある「太陽の塔」がそれを迫ってきている、そんな気がしている。

最後に。

映画に登場する人物の一人が語った言葉、
「表現して見せようと決意した時に、もう自分は変わっている。」
私にとって、noteを始めたことは、その何かだったのかもしれない。

さて、明日から、どう生きようか。

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