記憶の住人 一章の半分

「最近よく耳にする、子供を標的とした事件についてどう考えますか?」

「絶対に許されない事に決まってるだろ」

司会者は、なるほど、なるほどって感じに相槌を打っている。

「では、何故子供は狙われるのでしょうか?」

「子供っていうのは、狭い世界で生きている。自分に伸ばされた手は、無条件に握り返してしまう」

司会者はまた子気味良く相槌を打つ。一方で視線は手元の台本に釘付けだ。相槌のふりをして、実は台本を盗み見ているのかもしれない。

「え〜、議論も深まってきましたが、今度は少し角度を変えてみましょう。狙われる子供の責任についてです」

堂々と司会者は言い放つ。しかし、その内容はいまいちよくわからない。周りの専門家達も少し困惑気味の表情を浮かべている。

「子供を連れ攫う犯罪者が悪だという事は紛れも無い事実ではあります。しかし、一方で、簡単についていってしまう子供にも責任があるのではという声もあがっています。それについてはどう考えますか?」

「は?」

おそらく司会者は先程の言葉の補足をしたんだろう。それは何となくわかった。でも、その内容は到底理解出来るものじゃなかった。子供にも責任?頭大丈夫かこいつ。かっと頭に血が昇り、思考が上手く纏まらない。とりあえず、苛立ちを込めた視線だけを司会者にぶつけた。けれど、そんな俺の視線なんか司会者は無視して、またなるほど、なるほどって相槌を続けている。こいつはそれしか出来ないのだろうか。頭に昇った血が、怒りへと変わった。

「では、子供にも少なからず原因があると考えて良いのかもしれませんね。だとすれば……」

元から言う事が決まっていたかの様に、司会者は流暢な流れで話のまとめに入ろうとしていく。少し、ドヤ顔でだ。ああ、もう限界だ。

「そんな訳無いに決まってるだろ。ボケ司会者」

俺は、暴言を勢いよく司会者の顔へと投げつけた。こんな言葉が司会者の耳に入れば、大事になるだろう。それこそ、すぐにカットって言うディレクターの一言が飛んできて、放送自体が中断するかもしれない。
でも、実際にはそんな事は起こらなかった。なぜなら、俺の暴言は司会者にぶつかるすんでのところで、テレビのモニターに跳ね返されて部屋の床へと落っこちたからだ。コロンともガシャンとも音はしない。ただただ無音に落っこちた。不快な沈黙が続く暗い部屋の中では、チカチカと液晶だけが絶え間なく喋り続けている。
俺は怒りを込めた足で、体に掛かる毛布を蹴り上げた。そして、何度も地団駄を踏む。そんな事しても、ベットが少し軋むだけで、番組の進行に影響なんかある訳ない。

(ダンダンダン)

扉の向こうの方から力強い足音が聞こえてくる。その足音にも、はっきりと怒りが込められていた。

(ガチャッ)

「きもい声で騒ぐな」

扉が勢いよく開き、ノックの代わりに母から罵声が飛んできた。どうやら母の怒りの矛先は、早朝から部屋で騒ぐ俺に対してのものだった。

「こんな汚いところでよく……。きもいあんたにはお似合いなんだろうけど」

母は鼻を押さえ、床に転がるコンビニ袋やゴミを蹴り分けて部屋にずかずかと入ってきた。そうか、この部屋は臭うのか。殆どこの部屋から出ない俺は気付きもしなかった。でも、カップ麺に集る蝿を見つめていると、きっと母の感覚が正しいんだと思った。

「話す事すら出来ないの。ほんと、あんたってゴミそのものね」

母は寝転がる俺の眼前に立ち、罵詈雑言を次々と降り注いでくる。ああ、うるさいな。ゴミなんだったら話しかけるなよ。

「そんなだから、私がいつも陰口を叩かれるのよ」

そう言いながら、俺の下腹部を蹴り付けてきた。鈍い痛みが身体を襲う。俺は声を出さないようにぎゅっと唇を噛む。こういう時は、余計な事はしない方が良い。どうせ近所の人にでも何か言われた腹いせだろう。この家の異臭が酷いだとか、おたくの息子さんは殺した方が良いだとか。

「あんたのせいで、私がどれだけ苦労してるかわかる?」

自分の頭を掻きむしりながら俺に問いかけてきた。もちろん、下腹部の痛みはずっと止まない。歯を食いしばりながら、母からの問いを頭で転がす。私がどれだけ苦労してるか、か。結局、この人は自分ばっかりだ。自分がどう感じるか、自分がどうであるか、自分が周りにどう見られているか。頭を掻く左手の薬指の輝き具合が良い証拠だ。父とは十何年も前に離婚した筈なのに、きっと毎日丁寧に磨いているんだろう。私は独り身の寂しい女じゃありませんよって呟きでもしながら。

「はあ……。なんで私の人生、こうなっちゃったのよ。それこそあんたなんか産んだのが間違いだったんだろうね」

俺は反応しない。反応したくない。そんな無反応な俺に何をしても無駄と解ったのか、一つ舌打ちをして、俺に背を向けた。

「いい?今日、お昼に幸人君が来るから、あんたはどこかに消えておいて。彼は大切な人なの。私に前科持ちの息子がいるなんて絶対にだめ。あんたは産まれてこなかったのよ」

背中越しにの言葉。それだけ言い放ち、扉の外へと母は消えた。扉に向かう途中、つきっぱなしのテレビを苛立たしげに消し、本棚をちらちらと目で追っていた。いかがわしい何かでも探ってるみたいだった。

「鉄平だろう」

母が居なくなった部屋の中、一人呟く。俺を産んだ事を否定されたのは、辛かった。でも、俺自身が、俺が産まれた事は間違いだという事に気付いているのだからまだ耐えられる。それよりも、ずっとあんたあんたって風に名前を呼ばれない事の方が何倍も辛かった。鉄平なんてもう何処にもいないのだろうか。

「なんで、産まれてきたんだろう」

なんで生きてるんだろう。なんで死んでないんだろう。なんであの日、死ななかったんだろう。頭の中で疑問が巡る。でも、こんな事はこの五年間、引きこもっている間に何度も考えた事であり、結局答えなんて無かった。神様は残酷だ。
俺は部屋にかかった時計を見つめる。時計の針は先端がひん曲がり、首を垂れる様に静止していた。その針の下には、割れたガラスの破片がカーテンから漏れる朝日に照らされて、泣いてるみたいにちらちらと輝いている。時計はあの日、俺が素手で叩き割ってからずっとあのまま変わっていない。俺は視線を時計から離し、ベッドの上から右手だけをゴミの中にダイブさせた。ごそごそと潜ると、そこにはアルバムがあった。これもあの日、ここら辺に投げ捨てたんだっけ。

「あの日のままなんだな」

全部、あの日のまま。あの日は変わらない姿でずっと、ゴミの中に埋まっている。そう思うと、無性に悲しくなる。何で人間だけがこうも変わってしまうんだろう。

(ウィーーーーーーーン)

扉の外から薄らと掃除機の音が聞こえてきた。普段、中々聞かない生活の音。そういえば、昼に幸人君って人が来るんだっけ。どこの誰かは知らないが、物好きもいたものだな。金も無いババアの家にわざわざ来るなんて。何が目的だろうか。ろくな目的じゃないだろう。しかし、それに色めき立つババア程、みぐるしいものもない。いっその事、ドアを蹴破り幸人君の前に飛び出してやろうか。俺がこいつの息子だぞって。そしたら、母も現実を知るかもしれない。キュルキュルと痛む下腹部から怒りがじわじわ湧いてきて、右手の爪がギュッとアルバムの縁に食い込む。

「大切な人、か」

大切な人。怒りを込めて呟いた筈が、弱々しい吐息みたいに口に出た。それでいざ口に出してみると、俺の怒りは破れた風船みたいに萎んでいった。風船に針を刺したのは、遠い昔に母に抱かれてた思い出だった。あの頃の母は、何度も何度も大好きを注いでくれてたんだ。俺はその言葉があれば、本当に何も要らないと思っていた。母もきっと同じ思いなんだと、吸い付く乳房からどくどくと伝わってきた。両思いの美しさを初めて教えてくれたのは母だった。でも、母の中の大切な人からは、俺はとっくに消えているんだろう。今の母にとってはそれが幸人君であり、思いは掃除機の音に表れていた。私は幸人君が大好きだよって歌ってるみたいな音。でも、そんな母を否定できない。その思いは俺の右手の中にも詰まっているんだ。母とは違う、今もなお色褪せない大切な人で。
俺はアルバムを枕元にそっと置き、コンビニ袋の中に入りっぱなしの財布を掴んだ。そして、そのままそっと部屋の扉を開け、玄関に向かった。
恐る恐る玄関の戸を開けると、突き刺す様な陽光が俺の瞳を焼き、蝉時雨が耳を弾いた。そして、猛烈な暑さが体を襲う。これはやばい。一瞬、手榴弾を投げつけられたのかと思った。でも、いくら嫌われ者の俺でも、流石にそんな仕打ちはされない筈だ。そういえば今朝のニュースで、今は七月だって言っていた。五年も外に出なかったら、体の感覚っていうのはこうも過敏になってしまうのか。俺は必死に目を瞬かせる。瞬かせながら、頭の中でどこへ行こうかと考えてみる。

「時間を潰せる場所ねぇ……」

俺の住む町は大阪の中でも結構田舎の方にある。駅までは遠いし、見渡す景色は田園か住宅かの二択だ。町としては教育の町として推してるみたいだが、実際にそこで育った俺からすれば、ゲームセンターや、カラオケすら駅前まで行かなければ無く、不便な町ってイメージの方がしっくりきた。そんな町の中でも、家は丁度阪急とJRの境にあって、どっちつかずって感じにいっそう寂れていた。こんな町に、今、俺が向かえる所なんていくつあったっけ。思いついた選択肢を頭の中に挙げてみる。カフェ山田、トイボックス、吉野家、田んぼ公園……。どこにしようかと考えてると、やけに手に持つ財布が軽すぎる事に気づいた。なんとなく嫌な予感がして、もにゅもにゅ揉んでみる。生地と生地が擦れ合う感触が指へと伝わってきた。

「終わってるな……」

これじゃ吉野家の朝食定食すら食べられないだろう。頭の中にある殆どの選択肢は、ふあっと霧散して消えていった。それで結局、田んぼ公園に行く事にした。決め手となったのは、ベンチと水道が完備されてるって事だ。
公園に向かい足を進めていると、子供の声があちこちから聞こえてきた。そういえば、家は通学路に面していたんだ。声の方へと目を遣ると、女と目が合った。子供を庇うように俺との間に立つ姿からして母親だな。きっと俺はずっと見られてたんだろうな。すぐさま視線を逸らし、歩幅を広げた。それからは視線が子供の方へと向かわない様に、なるべく住宅の方を見ないように歩いた。

「おはようさん」

ぼーっと田んぼを眺めながら歩いていると、ドスの効いた低い挨拶の声が前方から聞こえてきた。視線を前に遣ると、黄色い旗を振る見守り隊のじいさんが目の前に仁王立ちしていた。小麦色に焼けた肌や、ズボンのポケットからぶら下がる泥のこびり付いた手袋からして、おそらく、農家の人だろう。母方の爺ちゃんが農家だった事もあり、すぐにわかった。

「兄ちゃん、もぐらみてえに、めぇしぼませてどうしたんだい?」

軽い会釈だけして通り過ぎようとする俺に、じいさんは少し訛った言葉遣いで話しかけてきた。土竜みたいと言われ、内心少しドキッとした。確か、農家の間では土竜はあまり歓迎された生き物ではなかった筈だ。畑の作物を食い荒らす害獣だと爺ちゃんが昔、言っていた事を思い出す。子供の頃、爺ちゃんの家に遊びに行くと、決まって爺ちゃんは、いいか、鉄平。巣穴を見つけたらすぐ爺ちゃんに知らせるんだぞと口酸っぱく言ってきた。それで小六の頃、裏庭にある柿の木の根元に巣穴を見つけて報告した。すると、爺ちゃんは巣穴の中に、駄菓子屋に売ってるチューイングガムを一粒落としていた。なんでそんな事をするんだと爺ちゃんに理由を聞いたが、害獣だから、仕方ないんもんでなとだけ告げられ、教えてはくれなかった。翌日、どうしても気になり巣穴をこっそり見に行った。すると、巣穴から十メートルもしない所に、黒いボールみたいな塊が転がっていた。遠くからでは何なのかはっきりとはわからなかったが、近付いてそれを暫く眺めてみるとその物体が何なのかわかった。理解した瞬間、俺は怖さで両目から涙が止まらなくなった。これは害獣だから仕方ない事なんだと何度も何度も自分に言い聞かせたのだが、それでいて頭の片隅では、これは自分の所為なんだとちゃんと理解もしていた。この土竜の目を一生忘れる事はできないんだろうなと子供ながらに、なんとなくそう思った。
見守り隊のこのじいさんからすれば、作物の代わりが子供といった所だろう。伸び切った無精髭をはやし、早朝から手ぶらで通学路を歩く俺に対して、濁った目が下から上へとゆっくり動いていく。害獣かどうかを品定めしている様だ。

「なにぶん、日差しが強いですから」 

俺は必死に無害そうな笑顔を作ろうとする。しかし、ここ何年も笑った記憶がなく、上手い様にいかない。やればやるほど不審者へとどんどん近づいていく。せめてもと頭の中で、俺はミミズ、俺はミミズと念じてみる。そんな俺に対し、じいさんは怪訝そうに顔を顰めるが、後ろの方から賑わう子供の声が聞こえてくると、興味を失ったかの様にそうかいとだけ呟いて、またおはようさんと声を飛ばしていた。さっきの俺に対しての掛け声とは別人の様な、人が良さそうな猫撫で声だった。
気まずくなった俺は、住宅と住宅との狭間の小路へと逃げる様に飛び込んだ。この小路を通ると、公園に行くには少し迂回する形にはなるが、あの通学路の先には他にも点々と黄色い旗を持った老人達が見えていた。そう何度もエンカウントしたいものでもない。
子供ぶりに歩く小路は、人の為って言うよりも、近所の野良猫の為に作られたって方がしっくりくる様な暗く狭い道だった。トタン屋根で覆われた道は、陽光も届かない場所でじめじめしているし、鼻から吸う空気もどこか埃っぽくて軽く咳き込む。子供の頃なんかは、ここは道だって思い込んでいたけれど、本当はただの家と家の隙間であって、道ですらなかったのかもしれない。

「なんか俺の人生まんまだな」

呟きが漏れる。ほんの数年前までは、俺も通学路みたいな真っ当な道を歩いていたんだ。
それが、いつの間にこうも間違えてしまったのだろう。足を進める度に泥が靴にこびりつき、両肩は塀で擦れて少し赤茶色に変色していく。それは、歳を重ねる度にどんどんと汚れていく自分自身に重なった。もしこの小路が本当に俺の人生だとすれば、オチは袋小路って所だろう。この先、俺の人生に何かが待っているとは思えない。そう思えてくると、なんだか無性に走りたくなった。てゆうか、もう小走りになっていた。そのまま小走りに歩くと、すぐに目当ての錆びたフェンスが見えた。田んぼ公園だ。なんで名前が田んぼ公園かって言うと、公園自体が田んぼの田みたいな形にアスファルトで四分割されているからだ。それぞれ砂場、滑り台、ブランコ、休憩用のベンチというふうに用途ごとに分けて設置されている。この公園の目の前が幼稚園という事もあり、夕方頃なんかは、結構賑わう場所だ。けれど、今は通学時間と重なってる事もあり、公園に人気は無かった。俺はそのまま、公園へと足を踏み入れた。

「違う世界に迷い込んだみたいだな」

公園に立つ俺を、新緑の隙間から漏れる木漏れ日が優しく照らし、藤の香りが鼻腔を擽った。公園に鳴く蝉の声も、俺の耳が慣れてしまったのか、涼感すら伴って馴染み溶ける。余りの居心地良さに、ずっとここにいたいと思った。何で人間は辛い時、こうも自然に癒されようと思ってしまうんだろう。エアコンの効いた部屋の中なんかより、よっぽどこの場所の方が居心地が良いと感じた。ずっと一人でここにいたい。何もかも忘れて、誰からも忘れられて。そんな事を思いながら、俺はベンチの方へと視線を向けた。すると、ベンチに腰を下ろす人影が見えた。先客がいたのかよ。少し落胆する。この場所からじゃ、萎れた藤のカーテンのせいで顔は隠れて見えないが、ピンクのTシャツを着た少女らしき人影が座っていた。背格好からしてまだ小学生じゃないだろうか。だとしたら、こんな時間に一人、公園にいるなんておかしな話である。きっと何か理由があるのだろう。遠目から映るその姿は、どこか悲しげであった。両の手で自分を抱くようにして座っている姿がそう感じさせたのかもしれない。
俺は彼女の事が気になった。何故か目が離せない。ここで目を離してはいけない気すらしていた。すると、そんな俺の思いが伝わったのか、突如夏風が吹き抜けた。心地よい風に揺られて、藤の紗幕はひらりとその覆いを開けた。

「千夏?」

その横顔を見た瞬間、気づけば言葉が溢れ落ちていた。そして、続く様に後から後から色々なものも溢れ出てこようとする。口をつぐんで抑えようとしても、全く止まりそうにない。頭がぐちゃぐちゃになって、それでいて嬉しくて、悲しくて、嬉しくて。

「千夏?」

ベンチに座る少女の横顔は千夏にそっくりだった。何もかも記憶の中の千夏と重なっていた。
千夏なのか?もし、そうならなんでまた俺の元へと現れたんだろう。あの日、突然俺の元から君は消えてしまったのに。俺はまだ、君の事を何一つ救ってやれぬままだというのに。
これは夢か何かだろうか?夢でも何でも良いと思った。夢だとしたら、もう少しだけ醒めずにこのままいさせて欲しい。
けれど、そんな俺の願いを嘲笑うかの様に、ゆっくりと藤のカーテンは降りてゆく。そして、千夏の横顔も、そっと俺の瞳の中から消した。突風の残り香が俺の頬を撫でる。

「千夏なわけないか……」

少女が千夏であって欲しかった。だとしたらどんなに良かったか。でも、この少女が千夏な筈がない。そんな事は頭では分かり切っている。なぜなら、俺の記憶の中の千夏は五年前の千夏だ。今、五年前の千夏にそっくりなこの少女は千夏なんかじゃない。

(キーンコーンカーンコーン)

耳に懐かしいチャイム音がこだました。呼吸を一つして、荒い息のままゆっくりとポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。八時十分。という事は、おそらく登校の為のチャイムだろう。小学校から数百メートルは離れているこの公園にまでこの音はちゃんと届いていた。その音は少女の耳にも同様に届いていたようで、気づけばベンチから腰を上げていた。そして、そのまま暫くじっと立ち止まったままだ。少女の表情はもう見えないが、落ちた肩からして良い表現は期待出来そうにない。辛いんだろう。でも、それだけじゃない気もした。ずっと立ち止まる少女は、誰かを待っているんじゃないかと思う。一体、誰を待っているんだろう。もしかしたら俺じゃないだろうか。初めて見た千夏の笑顔が浮かび、飛躍した妄想が過ぎる。それでいて、俺はその妄想に縋ろうとしている。宙ぶらりんな手に力がこもるのを感じた。でも、その手を挙げる事は出来なかった。最後に見た千夏の悲しげな表情も同時に浮かんだからだ。そんな手を振るか振らないかの俺の葛藤はほんの数秒くらいだったかもしれない。けれど、その数秒の間に、少女は金網のゴミ箱へと何かを投げ込んで、そのまま反対側の出入口からどこかへと消えていった。公園に残ったのは、蝉の泣く声だけだった。
本当に俺は何も出来ない人間だな。溜息を吐く。忘れよう。少女は千夏とは違う。この気持ちは、千夏に会いたいという俺の未練でしかない。妄想を押し付けてしまっているだけだ。少女と俺は出会わない方が良い。もうここにも来ない事を決めた。
俺は公園を後にし、ぶらぶらと歩く事にした。歩く途中、ふと、少女を呼び止めようかと挙げかけた手を見つめた。見つめた手は、浅黒い爪が伸びきり、爪と指の間には垢が砂つぶみたいに敷き詰められていて、昔見た土竜の手にそっくりだった。

(ヴー、ヴー、ヴー)

(岸本:久しぶり。今日、昼から飯でも行かんか?)

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