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「論理学」という言葉の内実を解釈する【論理学をつくる #1】

(2023.9.19.6:28 §1.1.3に加筆修正)
(2023.9.28 4:15 冒頭に、テキストの紹介リンクを追加)

読んでいるテキストはこちら

こんばんは。
積読を解消したい、ということで読書メモ形式で進めていこうと思います。

バイトでなんだか数学を教える機会が増えてきて、基礎的というかこういう教養チックなこともベースに入れておかないと恥をかきそうなので、というのがこの本を積読から引っ張ってきた理由です。

§1.1 論理学の3つの顔

§1.1.1 論証とはなにか?

ソクラテスに始まる師弟が生きたギリシア時代のソフィストらによる弁論術は、アリストテレス論理学として脈々と受け継がれた。それは、近代数学という形で現代の我々がよく目にするものであろう。

数学において、証明proofという行為に私たちが初めて触れるのは、恐らく中学幾何における図形の合同や相似の概念においてだ。
距離の定義された(R,d)のEuclid空間において、合同は極めて重要な概念である。

ここにおいて、証明という数学的操作を論理学の立場から分解して考えてみる(分析する)と、次のような骨組みになっているだろう。

前提premise ⇒ 結論conclusion

これを、前提から結論を論証argument(推論imference)すると云う。そして、このような操作によって結論が得られることを論理的帰結logical consequenceと呼ぶ。これを研究することが論理学である。

つまり

[しかじかの前提からかくかくの結論が論理的にでてくるというのはどういうことか]
[論理的帰結という概念の研究]
[正しい論証とは何か, 正しい論証とそうでない論証とをどのように区別するか]

戸田山, 論理学をつくる, 名古屋大学出版会, p. 3

についての系統的な研究を論理学と云うのである。

勿論、このテキストは数学のフィールドで書かれたものというよりは、もっと一般の論証に対するものである。従って、数学の文章(命題)に限らず
もっと一般の論証に共通する構造を探すことを論理学というのだろう。

上に「命題」という言葉を出したが、これは前提や結論を構成する文のことだろう。この章では明瞭な定義が与えられていないので何とも言えないが、「算数の命題」(1+1=2)、「世界地理の命題」(ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都はサラエボである)のような用途から見ると、そのように思われる。

§1.1.2 論証の妥当性validity

続いて気になるのは、これら前提や結論の連なり方である。

例1.
A:空は青い
B:海は青い
*****************************
C:北半球では月は東から昇る

という論証について、A,Bの命題が前提、Cの命題が結論に相当する。
このとき、A, B, Cは全て正しいが、前提から結論が出てくる(follow)わけではない。このような論証を正しくないといい、非妥当invalidであるという。

命題A, B, Cはそれぞれ正しく、これを真trueであるという。

例2.
D:人間は変温動物である
E:変温動物は体温が大きく変わる
*************************************
F:人間は体温が大きく変わる

例2.のように前提から結論が出てくるような論証を正しいといい、妥当validであるという。

命題Eは真、命題D, Fは正しくないので偽falseであるという。


では、どうして例2.の論証は妥当なのに結論が正しくなくなってしまったのだろうか?

本文では、それ(妥当な論証の結論が信じられない理由)は

前提に間違いが含まれていたからだ。論証の結論を信頼していいのは、(1)論証が妥当であり、なおかつ(2)その前提が全て真である、ときなのである。このとき、その論証は成功している(succeed)と言うことにしよう。

戸田山, 論理学をつくる, 名古屋大学出版会, p. 10

と記されている。
つまり、例2.の妥当な論証で結論が偽になってしまったのは、前提にウソ(偽の命題)が含まれていたからである。(※)

※ここまでの話として若干ラグがあると感じたのは、ここでいう論証の成功は、一種の公理のようなものとして認めざるを得ないのではないか、ということである。
日常的な感覚として、抑々前提に織り込んでいた話にウソがあったときに、そこから出てくる(followed)話がウソになる(なりうる、という方が正しい気もするが)というものがある。しかしこれが、どこか普遍的なものか、と言われるとそうは感じない。
尤も、偽である、という表現は使わず「信じられない」という価値観としての話になっているので、別段ここで深入りするものでないのは確かだろう。

注意すべきは、(2)の具体的内容contentについてはその真偽を論理学の中で行うことはできない、ということである。
別の言い方をすれば、そもそも興味がない、ということになるだろう。

§1.1.3 形式的真理formal truth

論理学の3つ目の探究課題として挙げられているのは、形式的真理 formal truthである。これは、もうその構文をしているだけで正しい、という類の命題である。(以下、加筆)
上の記述はちょっと微妙だったので、別の本(丹治著, 論理学入門, ちくま学芸文庫)の表現を借用したい。

論理的真理とは、論理語の働きだけによって真であることが保証されるような命題である

丹治著, 論理学入門, ちくま学芸文庫, p. 15

こちらのテキストでの論理的真理logical truthは、正に形式的真理のことを指していると読める。
丹治氏の本で云う論理語とは、次の節で述べる「形式」を形づくるようなことばであると簡単な説明がなされている。つまり、論理定項logical constantのことと考えられる。論理結合子→, ∨, ∧, ¬と量化詞のことを指すものと解釈しておこう。(加筆終)

論証としての妥当性を追求することが論理学の顔であることは前の2つの節で書いた。そのときに個別具体の内容contentについては興味がないといったが、万人が等しく受け入れられる主張statementだけは別である。これが如何なるものかを考えることもまた、論理学の役割なのである。


さて。

このchapterのタイトルである「3つの顔」とは
➀論証の妥当性validity
②論証に矛盾があるかconsistency
③形式的真理formal truth
の探究ということになる。

ここまでで②については記さなかった。次のchapter2で触れることにしたい。

§1.1.4 形式form

このようにして論証の正しさ、即ち妥当性について見てきたわけだが、大事なのはこの類の正しさにとって大事なのは、その具体的内容ではない、ということである。
つまり、命題の真偽は論証の妥当性に関わりがない、ということである。

代わりに大事なのは、その形式formである。

○は□である
□は×である
*************
○は×である

のような、論証の骨格となるものを形式と云っている。
つまり、既に知っている何らかの妥当な論証の骨格と同様の骨格、即ち形式を持っている論証についても、同じように妥当であると云えるのである。

例1.のようなものは、前提も結論も正しいことは知っているが、論証としては妥当でない。それはなぜならば、形式が妥当なもののそれに符号しないからである。このように「たまたま」正しい命題から異なった正しい命題(これがまったく同じものであった場合は、妥当)が得られることを論理上の間違い(誤謬推論)logical fallacyと呼ぶことがある。

また、「すべての」(量化詞)やら「~でない」(否定詞)、「または」、「ならば」(接続詞)のような表現についても妥当性に関わりがある。これらを論理定項logical constantと呼ぶことにする。
つまり論理定項とは、論証に含まれる命題から具体的内容contentを取り除いた部分のことを指すものだと思える。(*)

*肝心な、具体的内容と論理定項との区別がされていないが、それは難しい問題であるので、ここでは代表的なもののみが挙げられている(p. 14)。

§1.2 論理学はどうして妥当性だけを見るのか?

§1.1.2の最後で、論理学は具体的内容contentではなく論証としての正しさを議論する学問であることに言及した。

論証として成功しているならばその論証は妥当だ。
しかし、論証が妥当だからといって必ずしも成功しているわけではない。
(例2.がその好例である。)

ここで湧いてくる疑問としては、どうして論理学は妥当性だけを扱って、その具体的内容についての真偽は守備範囲に入れないか、ということである。両方を等しく扱うことこそ、完璧な論証を生むのではないか、と思える。

このとき注意しなくてはならないのは、上の主張をしたときに念頭にあるのは「正しい結論を得る」ことだけである。

ここで発想を変えてみよう。
結論が間違っていた場合に、もしそれが妥当な形式の論証であれば、前提としていた命題が間違っていたことが分かるではないか。

なんだかこれこそ「詭弁」と呼ばれるソフィストの弁論術の気を帯びているが、たしかに有力な気はする。
数学という限られた文脈の中においてさえ、定理を打ち立てる際にどこまで主張の前提(条件)を緩めてよいものかは非常に重要な着眼点である。この作業の際に、どこかまでいった時点で結論が間違ってしまったときには、その一歩手前の条件が最大限緩めたものであるといえる。これは論理の妥当性、形式の力そのものの証左である。


勿論テキストにあるように分野すべてを横断するような博覧強記、百科全書的な知を手にすることが不可能に近しいこともあるだろう。
しかしこれについては、手に入れるに越したことはない、という反論が考えられる。としても、それらは論証の形式に具体的に嵌め込まれる「肉」に過ぎないと考えれば、それを支える骨格を議論することの方が有用であるようにも思える。骨無くして肉無し、である。

また、これはテキストに書いていないが、具体的内容の真偽については価値観に依拠する部分が大きいことが挙げられそうである。論理学者の国籍に応じて左右される事項を守備範囲にするのは不可能だ。
結局、何を出発点にするか、という点で色々な学問が派生していると考えると、論理学はそれらの展開を支える屋台骨/縁の下の力持ちであり、地球上の全人類に共通した理解を詳らかにするという点で、ある種のプロトタイプと云えるかもしれない。


最後に。
論理学の3つの顔の2つ目に挙げられていた矛盾性consistencyについて。

この章で記したように、論理学で妥当性を検討するのは、結論が間違っていた場合に、もしそれが妥当な形式の論証であれば、前提としていた命題が間違っていたことが分かるからと見ることができる。

このとき、以下の例を考えよう。

例3.
α:βは、アメリカ人である
β:私とγは、日本人である
γ:私は、アメリカ人である

これらの発言は、俗に「矛盾している」と云って、誰かが噓をついていると考えられる。
この仕組みを論証の妥当性で考えることができる。

αから、βはアメリカ人といえる。
γから、γはアメリカ人といえる。
しかし、βから、βは日本人且つγは日本人といえる。

ここで、形式的真理として「ある一人の人物がアメリカ人であり且つ日本人であること」は偽である。(国籍?のような話は置いておいて)

全員が正しいと思っていたら成立しない結論が出てしまった。これは、全員が正しいとしたことに誤りがあるのだろう。(背理法である)

このように、結論としておかしなものが出てきたときに、前提がおかしいとスパッと云えるのは、妥当な論証を我々が無意識にでも使っているからである。


今回はここまでです。
これで、大体本文の第1章「What is THIS Thing called Logic?」の内容はお終いだと思います。

お疲れ様でした。

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