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"言語論的転回"で思考ロックした頭

古典的な言語観から近代的な言語観への遷移

言語が私たちの世界の捉え方を統制している、という話は多くの人がどこかで一度は聞いたことだろう。

これが、タイトルにも書いた”言語論的転回”の意味するところである。

「転回」という表現は、コペルニクス的転回という術語でお目にかかったことがある人もいるだろうが、ニュアンスとしてはそれと同じ。

それまでは言語というのは「目の前にあるものに付加されるラベル」のような役割を持つものとして理解されていたわけだが、

鬼才ヴィトゲンシュタインあたりが出てくると、その理解は大きく覆されることになる。

簡潔に述べれば、「言語の意味はそのテクストによって変容する」という理解が誕生するわけであり、これは従来の言語への理解からは180度と言わずとも逆転した主張であった。

言語論的転回を直感で捉えるとしたら、

・エスキモー(イヌイット?)の利用する言語には、「雪」についての語彙が異様に多い
・アメリカでは、馬種を言い分ける語彙が発達している

こういったものはその土地の人々のライフスタイル(=テクスト)に依存するところが大きい、というのは意外と抵抗なく受け入れられる解釈ではないだろうか?
(※私は、言語は自分の思考を伝達するためのツールというスタンスを取っているので、”利用”という表現を使うよ。純粋経験を語ろうとするときにバイアスがかかるのは、この言語のせいだとも思ってるよ←細かいことは、また別の記事にするかも...)

実際、文化人類学なんかもこうした言語解釈のもとに研究を押し進めてたりする。
←文化人類学の面白いところは、こういった解釈を重用する割には、論文とかは英語で読まれることが多い点。なんだか本末転倒な気がしてならないのは私だけ?

少々脱線したので、そろそろ本線に戻る…

既に言語が整備されている時代に生まれた私たちの世代(祖父の時代にも既にそうだったであろうが)からすれば、母国の言語が表現する以上のスペックでの表現は知る由もないし、基本的には知る必要もない。

なぜなら、「相手との意思相通が図れる=共通の言語(=テクスト)を使用している」からである。

つまり、基本的には、私たちの対話者には同じ祖国を持つ人々が念頭に置かれてきたということである。

だから、言語がラベル的な機能しか果たしてないと言われても違和感を覚えない
―「この赤色球体は、リンゴというんだよ」という日常の一コマを区切り取っても、これが何かすごいことをやっているんだという実感は湧かないだろう。

ハイライトした3語に注目してほしい。

赤色、球、リンゴ―すべて、日本語だ。

だが、もしかしたらあなたが見ている世界と他の人が見ている世界は全くの別物かもしれない。

以下、「」付きの表現は”あなた”の言語(=テクスト)のものとする。

例えばあなたは私のお母さんで、目の前にある「リンゴ」について教えてもらっているとしよう。

あなたが「赤」と口にしたとき、私は「青」を目にしているかもしれない。しかしそうした場合には、私は「青」を見て「赤」であると覚えているのである。

ちょっと分かりづらいかもしれないが、少し前の記述に戻ろう。

既に言語が整備されている時代に生まれた私たちの世代

この文で意味したかったのは、私たち個々人が見る世界は多種多様かもしれないが、言語として外に吐き出すときには規格化されてしまっていると言えるのである。

つまり、インプット(=純粋経験)の段階ではありのままの世界を捉えているのだが、アウトプット(=言語化)の段階では言語というテクストが構築する世界に囚われてしまっていると言える。
←別の記事にして説明するって先述したけど、もう説明したに等しいな(;'∀')

これを無意識のうちにやってのけるのが、先ほどの日常の何気ない一コマである。故に、私は”何かすごいこと”と形容したわけだ。

この視点を持っていると、納得できる事例をひとつ挙げておく。

・日本には四季があるから、日本人は趣(風流)を重んじる風土を持つ。それは、短歌や俳句といった言語体系から読み取れる

グローバル化がぶち壊すもの

しかし、このスキームは昨今は薄らぎつつある。それは、グローバル化という一言に要約される大きな波である。

ここまで来て、ようやくタイトルの話に結び付く。

グローバル化というのは、それまでの状態と比較すると「より開かれた」状態であると言える。

それは多方面に渡るものだが、特に言語に注目すれば「異なるテクストを持つ人と意思相通を図る必要が出てくる」ということである。

これは文字通り異世界転生のようなもので、異なるテクストの中で生まれ変わることが要請されるのである。

具体的なステップとしては、その言語を学習する、ということになるわけだが、これが容易であるはずがない…

と、思うのがここまでの流れからすると順当なのだが、奇妙なことに日本人で英語が喋れる人は数多存在する。

この現象を言語論的転回の観点に矛盾なく説明しようとすると、以下のようになるだろうか。

①言語が有するテクストは、その基盤は如何なるものでも同一である
②言語が有するテクストの差異は、乗り越えるのが比較的容易である

ぱっと思いついたのがこれくらい。

いずれにしても、言語論的転回を主眼に据えてこの事態を説明しようとすると何だかうまい説明がつかないように思える。

英語が上手な日本人は遍く英語に近しいテクストの下で育ったという説明を試みるのも悪くないが、それと同じくらい言語論的転回から目を逸らしてみるのも悪くないと思う。

というのは、言語論的転回がその威力を発揮するのは「比較」という行為においてである。

ものの性質は比較無しには成り立たないともよく言われるように、言語論的転回がそのテクストの解析の役に大いに立つのはまず間違いない。

しかし、いま問題にしているグローバル化はそういった比較ではなく、むしろ融合させようとしている段階にあると言える。

まとめ

SNSなどのテクノロジーの発達に伴って、ますますグローバル化は進展していく。

そういった中で、個々のテクストの輪郭を明瞭に把持するのではなく、異なるテクストを融合させる試みが増えていくことだろう。

そうしたときに、言語論的転回に見られるような差異付けで思考ロックしてしまうのではなく、もっと大局的な視座を検討することも悪くないと思った。


☆上述の話でちょくちょく出てきた”純粋経験”については、以前大学の課題で作成したものが意味合いとして分かり易いと思ったので貼っとく。
 よかったら、目を通してみてそ。



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