「他者」性を許容できない人々 #1 ~映画「整形水」を観て~
こんにちは。
本稿では、先月中旬に公開された韓国映画「整形水」について感想を書いていきたいと思います。
映画紹介から見える、「物語」の画一化
先日、Twitterの方に、ふと思い出したかのように感想を投稿した。
映画自体を観たのは、先月の25日。
観てからすぐに感想を書こうかとも思ったのだが、なかなか腰が上がらずに3週間ほどが過ぎてしまった。
ここに既に書いたように、プロット自体は、既になんだかんだで問題提起されてきたものを、もう一度擦る程度のものだった(ように思う)。
別に、それ自体がダメだ、とかそういうことではないのだが、作品の内容に入る前にひとつ、書いておきたいことがある。
それは、この作品の拡散状況である。
ネットでの取り上げられ方を見ていると、「外見至上主義への鋭い問いかけ」だとか「ルッキズムの暴力への疑問」だとか書かれている。
私が注意して見るようになったからなのかは分からないのだが、こういった手の映画紹介のされ方はポピュラーなものになっているように思う。
酷い場合には、トトロやらルパンやら、古典的な「名作」を持ち出してきて、「制作当時、宮崎駿は○○なシーンに✕✕な思いを込めていた」なんて銘打って記事が送り出されたりしている。
最近では、ヱヴァンゲリヲン(以下、エヴァ)の最新作にして最終作が公開された。
映画の最後に「終劇」と出て、感無量だった人は少なくないことだろう。
さて、そんなエヴァだが、これもまた先のような何とも「酷い」記事で以て紹介されることが多い。
例えば、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」。
私も気になって一応全編を観たのだが、あちらこちらで散見されるではないか―同様の価値の押し売りが。
劇中中盤少し前辺りで、シンジがケンケンの家から家出して、トンネルを一人さまよう姿が描かれる。
このときのカメラアングルについて、庵野監督は「シンジの孤独」が浮き彫りになるように嗜好を凝らした「そうである」。
他にも、監督個人の趣味で「電柱が多用」されたり、監督の生い立ちに深く関係して「登場人物たちは、どこか不完全な存在である」といった説明が為されていた。
―これが、価値の押し売りでないならば、一体なんだというのだろうか。
押し売り、つまり強要である。
シンジは、父がいない環境で育ったことが「重要」であり、それが物語に「深く」関係していくのである。
…………?
知ったこっちゃない。
一体全体、何が楽しくてそういう読み取り方をしなくてはならないのか。
これはあくまで、シンジという人物像の読み取り方の「一例」に過ぎないあはずであろう。
なぜそれが、あたかも「真実」であるかのように語られるのか。
これが、甚だ疑問でしかない。
恐ろしいのは、こういう価値の強要を受けて、人々が「なるほど!」「そういうことだったのか!」と「納得」することである。
自分で作品を深く吟味することを放棄して、安直に記事に書いてあることを拾って、その作品を他の人よりも深く知った気になる。
そしてそれを、友人らとシェアして、その感想の「汚染」がどんどん広がっていく。
与那覇さんが「亜インテリ2.0」ということばを書いていらしたが、まさにその典型のように思う。
こうして、意識せずとも「~し得る」ではなく「~すべき」の方へとひたむきに走っていくのである。
(この言い回しは、最近お世話になっている大学の先生の言葉を借りたものである。)
この作品はこうも「読める」ではなく、こう「読め」と言うのである。
何故ならば、「作者は○○な意図で書いている」から。
画一化された「物語」は、感染する
知らん。どうでもよい。
繰り返すように、それはあくまで作品の一つの解釈に過ぎない。
そもそも本を含めたあらゆる作品は、作者の手を離れた瞬間に、作者という概念は消滅するはずである。
これは奇妙に聞こえるかもしれないが、事実はその通りであろう。
その作品を生み出した瞬間の、「分人」の集積体であるところの作者Aは、その瞬間にしか存在しない。
次の瞬間にその作品に触れる作者「であった」者は、既にA'という別人にその姿を変えているのである。
何故ならば、少なくともその時点でのAは「その作品を世に出した」という新たな「顔」が追加されたAになっているからである。
この二つのAを同一人物だ、というのには無理があるだろう。
作者ですらこの有り様なのだから、作品の制作に携わっていない一般読者が当時の作者の様子について「完璧に」言い当てることなど不可能だろう。
つまり、皆が口々に言う「作者」というのは、結局は自分たちの文脈に読み替えて受け取った像に過ぎないはずなのである。
本当は、それでいいはずなのだ。
にも関わらず、人々はそれを受け入れようとせず、なにか権威のある人や場所から出てきた言説を、あたかも自分の意見であるかのようにして同調する。
そして、それに同調できないものは異端だとして、徹底的にコミュニティから排除する。
これは、俗に「同調圧力」と呼ばれるものだ。
価値観は均質である方が、調和が取りやすい。
それは、元々人間が集団を構成するときには「想像力」を多分に利用してきたことが関係しているように思う。
この「想像力」という発想自体は、ユアル・ノヴァ・ハラリからの受け売りではあるが、ひとつの可能性として非常に面白い。
(この「面白い」というのも、万人の興味をそそる、という意味ではなく、私がそう思ったに過ぎない。形容詞的な表現は、単にその人の視点を表しているに過ぎない。それが絶対ではないのである。たまには、このことを念頭に置いて考えてみてもよいのではないだろうか。)
想像力の大きな産物には、古代からの遺産としては「宗教」、「国家」等が挙げられるだろうか。
これらは人々を結び付けておくのに強力に作用したが、その一方で均質化を図るために、多くの人々が命を落とした。
こういう歴史があったことを「忘れ」て、人々は画一的な「物語」を性懲りもなく掲げているように思う。
本来は、歴史とは単なる出来事(イベント)の列挙であるはずである。
歴史学は、そこに「物語」を組み込む。
だが、この歴史の物語化は絶対的なものではなく、むしろ相対的なものであるべきだ。
(ここは、「~すべき」だろう。絶対的なものを認めてしまっては、あらゆるものに「~し得る」の可能性を諦めさせることになってしまう。)
現実には、そうなっていない。
「○○史観」のようにして、主力な歴史観が跋扈し、私たちはなぜかその路線に沿って言説を展開する。
そうなっていることの一因には、先にも述べたように「価値観は均質である方が、調和が取りやすい」ということがある。
例えば、「西洋列強の影が落ちてきたことに危機感を募らせ、それゆえ幕末の尊王攘夷運動が活性化した」という一文は、誰の目にも明らかだろう。
ここでいう「事実」は「西洋列強の影が落ちてきた」、「幕末の尊王攘夷運動が活性化した」というこの二点であり、本来的にはこの間に因果関係は一切見えないはずである。
なぜなら、私たちは当事者ではないからである。
しかし「それゆえ」という接続詞が挟まることからも分かるように、「歴史学」という形でその二つの「事実」は繋ぎ合わせされる。
こうしてできた「歴史」には恣意性がある、ということは一部の有識者(「レアな」文献を有する/閲覧できる者たち)によって隠匿され、私たちは彼らが出版する作品を通して、いつの間にか洗脳される、という点から明らかではないだろうか。
これに、初等・中等教育が大きな役を買っていることは論を待たないだろう。
結局、ここにも価値の押し売りがある。
「あり得た」可能性を失し、「こうだった」という因果の決めつけを強要する。
そうした方が、日本人という共通のアイデンティティを守れるからである。
「我々日本人は、尊王攘夷運動で流れた血の上に生きている」という、共同体意識―「想像力」の産物である。
他者が存在することの意義
だが、果たしてこの在り方は、人間として「健全」なのだろうか。
これでは、一体何のために「私とは違う」他者が存在しているのか分からなくなってしまう。
近代以降の哲学の考察に拠れば、私たちは対象の存在をその文脈に沿って理解する。
いまの私たちはどうだろうか。
そういう本性的な在り方から逃れて、表面しか眺めていないのではないか。
本来「あり得た」フォルムを度外視し、いま目の前にある姿だけを絶対視しているのではないか。
―「鳥」とは、なにか?
と問われたとき、あなたはどう答えるか。
このとき、正解があると思った人は、もう既にアウト。
この問いに、正解なんてものはない。
強いて言えば、あなたの口から出た説明、それ自体が「正解」だ。
あなたという文脈の集合体が観察する「世界」の在り方、自分はその中に投げ込まれているのだ、という感覚。
その中で対象をまなざし、得た情報は全て、たしかにあなたにとっての「鳥」である。
だから、正解なのだ。
まとめ
他者が存在する理由は、この「正解」を共有することにある、と考えるのはどうだろうか。
今まで見てきた例では、どれも正解を共有するのではなく、正解を定めようとしていた、と言い換えることができる。
そうではなく、「自分はこう思う」という意見を受容できるだけの余裕を、自分の中に持つこと。
そのためには、先ず自分の中にある程度透徹された「正解」を用意しておく必要があるのではないか。
そうすることで初めて、他者の「正解」を位置づけられるだけの体系を自分の中に持つことができるだろう。
いまのネット記事を拡散するだけの人々には、自分なりの「正解」が無いのである。
自分で考える機会が無い・自ら捨てているのである。
先ずは、そこら辺の意識改革から始めていくのがよいのではないだろうか。
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