続けた老人
世の中、若いことに一生懸命なひとが多い。若い方が良いようだ。若く見えたい。そういう感じだ。
だけど、今60代の半ばが見えてきた自分が思うことは、いわゆる「若見え志願」とは少し違う。ただ、そのことを話すのは気が進まないのである。
それは、私が年取ってきて思うことは、身体は衰えるけど、続けてきたことから培ったことは消えないということだからだ。これは、昔に戻ってやってみることができないことである。だから説明はできないといってもよい。
例えば、私は運転ができない。色々事情はあるのだけど、第一には動く凶器である車を運転してなにかあったら貧しい自分は一巻の終わりであるという恐怖が強かった。とにかく、恐怖を伴うことは嫌だったというのがある。また、他人に使いっぱしりにされがちな性だったので、運転手にさせられることも嫌だった。なにより強度の近視だったので、それもあった。
だから私には運転に関する「続けた記憶とか体験」がない。そこから導かれる身体知がないのである。反射神経といってもいいだろう。脳の作動ともいえようか。
なんでもそうなのだが、続けてきたことで肉体やあるいは魂までもが変わってくることというのがある。わかりやすい例をいえば、楽器が弾けるとかもそうかもしれない。
ピアノの小曲を演奏するのには、実はものすごい手間がかかる。『エリーゼのために』とかをある程度きちんと弾くのにはひとによるけど、2~3年かかると思う。その過程で脳や身体の中に生まれるネットワークがあり、それは、楽器を演奏しなくなっても消えない機能になるというわけである。
具体的なことは、ここには書かない。まあ、まとまっていないというのがあるのだけど、ちゃんと3年とか毎日楽器の練習をしたひとはみんな知っていることでもあるから。
歳を取るとそういう積み重ねからの機能を使って静かに楽しめることもある。
ひたすら孤独そう、あるいは気が狂ったよう、とかはた目には見えても、実は楽しんでいるだけかもしれないのである。
ぱなせあつこ
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