いつまでも憂鬱だと嘆いて憂いて生きている

いつからこんなにも息をするのが難しくなってしまったのか、とか。悲観して嘆いてワーワー喚いて人に迷惑をかけるのが得意だ。
幼い頃は風の子だった、本が好きで、遊ぶのが好きで、甘いものが好きなぽっちゃりした子供だった。
同時に甘いものに依存していた子供でもあった。甘いものがなくなると癇癪をおこして、砂糖やミロを直接口に入れたり、チョコソースを飲んだりしていた。今でも、甘いものが切れると癇癪をおこすのは変わらない。
そう、子供なのだ。いつまでたっても。病気でも精神的に病んでしまったわけでもない。いい歳をした子供なのだ。

私は小学校5年生から中学まるまる学校には行かなかった。理由はいまになっても曖昧だ。行かなかった期間は人生のどん底だったと思う。1つ目の。どん底と言っても別に誰から攻撃をされている訳ではなかった。自分の頭の中で常にその時の最悪の事態を考えて、全ての、あらゆる事を、考えて考えて、考えることに囚われて自滅していた。だから、癖づいてしまっている。今日も。

私の思考回路は最終的に最悪な方向に向かうのが得意だ。いつからか、考えてしまったその最後には「自分がいなくなれば全てがうまくいくのに」が呪いのように頭を埋め尽くす。これはここ数年のいつものやつ。になっている。

「自分がいなくなれば全てがうまくいく」にたどり着いたはいいが、自分がいなくなるというのはとても難しかった。頭でっかちの臆病者にはせいぜい薬を飲んだり、タオルをきつく巻いたり、ハサミを手にして腕と睨めっこするしかないのだ。こうなると、そんなことも出来ないか!臆病者!ホントにそう思ってんのか!と野次が飛んできて、自分の甘さに辟易として泣いて喚いていつの間にか眠る。

繰り返している。いつも繰り返している。この繰り返しにもう随分とイヤになってしまった。振り回されている周りは何倍もイヤで心を削られているだろうと思う。どうして繰り返してしまうのか。
幼い頃、夜の部屋が怖かった。何者かがやってきて鎌を振ると思っていたから。ニュースなんかを見ると恐ろしい事件や事故がたくさんで早歩きで帰ったり、お風呂やトイレだって恐ろしかった。人のいない部屋すらこわかった。
今では、もう怖くなくなってしまった。朝起きたらどうか目が覚めませんように。事故に合いますように。そう望んでいるから。
いくら楽しいことがあろうと、悲しいことがあろうと、心のどこかで他力本願。願っている。救われたいと。どこまでいっても私は他者が、なにかしらが自分のことをどうにか、なんとか、向こうから、やってこないかと、待っている。とてもずるいと思う。

医者から言われた言葉がある。
「貴方は崖の上で座り込んでいて嘆いている。そこを私が無理に背中を押すわけにもいかない。」

崖の下はなんてことないのにウジウジぐちぐちしているだけなのだ。いつまでも。きっと永遠にそうなのだと思う。



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