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「ポンヌフの恋人」から浮び上がる恋愛観

1991年公開のフランス映画、「ポンヌフの恋人」。

改修工事の為、閉鎖されていたパリのポンヌフ橋で暮らすホームレスの青年と、失明の危機にかられた女画学生との純愛を描く物語。


...と、なっていますが。

その前にまず、

「純愛」ものと言ったら、皆さんはどのような物語を思い浮かべますか?


私は正直、この映画を観る前

「純愛物語」ということですから

何かしらのロマンティックな展開を予想していました。

愛の前に立ちはだかる大きな壁、それを乗り越え奮闘する男女。あるいは、残酷な運命を前に絶望し、儚く散る愛(ロミオとジュリエットのような)。はたまた自己犠牲の上に成り立つ愛。絆。


そう、それこれがドラマ。

私が思い描く「純愛物語」だったのです


...が。


本作では、そのような「純愛物語のイメージ」が覆されました。そしてそれこそが、私自身がこの映画を観ていて最後まで目が離せなかった最大の要因でした。


それと同時に、「純愛とは?」という純愛の定義において改めて考えさせられる物語となっていました。

純愛の定義として(引用:Wikipedia)、

邪心のない、ひたむきな愛。純愛の定義としては、他に「その人のためなら自分の命を犠牲にしてもかまわないというような愛」「肉体関係を伴わない愛(プラトニック・ラブ)」「見返りを求めない愛(無償の愛)」などがある

とあります。

先述したように、純愛というと「プラトニック・ラブ」、「無償の愛」といったイメージが先行しやすいような気がします。実際、そのような「純愛」がテーマの物語は多く存在します。


しかし、本作では

「邪心のないひたむきな愛」

これを、追究する物語となっております。



(以下、ネタバレあり)

例えば、驚いたシーン。 

集めてきたお金をいれたボックス缶を橋に置くミシェル。

「これだけあれば目を治す手術ができるかも!」

喜ぶミシェル。歌を歌いながら、体操を始める。

ミシェルがボックス缶から目を離している隙に、そっと体操しているミシェルの方へボックス缶をずらすアレックス。そして、見事ボックス缶がミシェルの腕にヒットし、ミシェルの集めたお金はセーヌ川へ、ドボン...

嘆くミシェル。アレックスの仕業とは露知らず...


また、ミシェルの目は治る、目を治す医者がミシェルを探していると知ったアレックス。

アレックスは、ミシェルの情報を呼びかけるポスターを剥がしていき、しまいにはポスター貼りの仕事をしている車を燃やし、業者もそれに巻き込まれて焼死する...

衝撃的なシーンの連続でした。

ミシェルもミシェルで、アレックスのひたむきな愛を無下にするような態度を取ります。

刑務所に入ったアレックスのもとを訪れたのは3年後だったし(忘れようとした、とも発言しています)、「クリスマスの夜、ホテルで私を食べてね(といった内容のジョーク)」を本気にして、「ホテルの予約をとってある」と言ったアレックスに対しても「帰らなきゃ」と、素っ気ない態度をとります。


これらのように、本作ではもう、痛々しいほどの「エゴのぶつけ合い」を繰り広げています。中には、観ていて不快になる人も多く存在するのではないかと思います。アレックス、なんで!好きならミシェルの幸せを願って協力しようよ...とか、ミシェルはアレックスのことを本当に愛しているの?とか。

しかし、その「エゴのぶつけ合い」こそが本作の最大の魅力であると私は感じました。

天涯孤独なアレックスは、ミシェルと離れたくなくて、ミシェルが目を治すチャンスを幾度も奪います。自分が孤独になるのを恐れるがゆえに、ミシェルの幸せを奪ってしまっていたのです。

また、ミシェルは恋人、ジュリアンを失った孤独を埋めようとアレックスからの愛を利用します。他人からひたすらに注がれる愛は気持ちが良いものです。自分の存在を肯定してくれるし、むしろ底上げされているような気分にもなります。

これらが、両者の「エゴ」でした。しかし、これこそが究極の「純愛」と言えるのではないでしょうか。

互いの利益のために寄り添い、培われる愛。そこにはエゴイズムが生じますが、愛の深さゆえに...と言ってしまえば聞こえはいい。正義感や自己満足、その他もろもろ一切とっぱらってしまったまっさらな気持ちは、愛は、どうしたって利己的なんだ。そんなことを考えさせられました。

従来の純愛物語に対してなんともアイロニカルで、おもしろい作品だなぁと思いました。

それに、愛のイメージに関するマイナスな一面について人々は悲観的になりすぎだ、と私は思います。他人の欲望は汚くて、自分の欲望は汚くないのでしょうか?そもそも、自分の欲望に気づかないで哀愁に浸る人なんかもいて、笑っちゃいますよね。自己犠牲が何かを生み出すと盲信する組織や人々、狂気の沙汰ですね。

話は逸れましたがこの「ポンヌフの恋人」では、愛を神聖なものとして捉えるのではなく、愛の「汚い部分」、「邪悪な部分」と自分自身がきちんと向き合うこと。そして、その部分を愛する者とどのように織り成していくかということ。

このようなひとつの「恋愛観」について考えることができる、と思いました。

それと同時に、映画の魅せ方としての多様性に、改めて深く感心させられました。





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