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すずめの戸締まり考察②〜災害三部作から見る「すずめの戸締まり」〜

すずめの戸締まり考察①の続きになります。


3、災害三部作から見るすずめの戸締まり

 新海誠の代名詞といえば、2016年「君の名は。」2019年「天気の子」だろう。この二つに加え、本作「すずめの戸締まり」は、物語に災害が添えられることから、災害三部作と称されることが多い。

「君の名は。」では彗星の落下による村の壊滅、「天気の子」では異常気象により降り続く雨と東京の浸水、そして今回は日本列島各地で起こる地震等、災害範囲が広がっている点も特徴的である。

 以下、2016年からの新海作品と本作の関連性について考察していく。



3–a、「君の名は。」と「すずめの戸締まり」

 まず、「君の名は。」と「すずめの戸締まり」の関連であるが、これは非常にわかりやすく、ボーイミーツガールの形がとられていることだと言えるだろう。

「君の名は。」は、主人公である瀧と、巫女の力を持つ三葉の入れ替わりという必然的な交わりによって、村の彗星災害を未然に防ぎ人々を救う話であり、つまり少年少女の出逢いによって始まる物語である。

2人は紆余曲折を挟みながらも、その絆を固いものにしていく。本作でも、始まりは鈴芽と草太の偶然の出逢いであった。

 
「君の名は。」は、大ヒットを叩き出した作品であったが、批判も多く見られるものだった。災害を丸ごと強引にファンタジーな力で抑えたことや、地理問題等の矛盾を強烈なエンタメで打ち消そうとしたところに矢面が立ったのである。

 

 それに対して、本作では実際に起こった大震災…日本に生きる者なら誰もが抱いたであろう「痛み」に訴え、それを上手にファンタジーに落とし込んだ。

そこには「痛みを忘れず、それでも前に進もう」という明確なメッセージがあり、震災から10年という月日の一つのけじめとして、監督が伝えたかった想いを感じさせる。

あまりにもセンシティブな出来事のため、触れるべきではないとする人も多くいるだろうが、「敢えて」ダイレクトに訴えた監督の強い意志を、ここでは評価したい。


3–b、「天気の子」と「すずめの戸締まり」

 次に、「天気の子」との関連である。非常に長い前提補足が入ることを先に述べておく。


 まず、「天気の子」は「少年少女の選択の物語」だということを述べたい。

 異常気象により雨が降り続く東京で、家出少年の森嶋帆高が出逢ったのは、祈ると天気を晴れに変えることのできる天野陽菜という少女であった。


 2人は陽菜の晴れ女の力を用いて、「晴れ女サービス」を始め、その活動を通じて、晴れが人々に笑顔をもたらすことを知る。しかし晴れ女には悲しい運命があった。それは地上に晴れをもたらすのと引き換えに、晴れ女は人柱となり、地上から消えてしまうというものだった。


 陽菜を犠牲にして東京に晴れを取り戻すか、それともこのまま東京を水に沈めるか、二項対立の中で帆高が選んだのは次である。

「もう二度と晴れなくたっていい。
青空よりも俺は陽菜がいい。
天気なんか狂ったままでいいんだ!」

そして、帆高はまた「自分のために祈って、陽菜」とも言う。これは明確な選択である。帆高はその他大勢の笑顔よりも、たった1人の好きな人を選んだということである。


 このことについて、最大多数の最大幸福という思想を踏まえて考えていきたい。これは大多数の利益が、最大幸福であるとする、功利主義の考え方である。天気が人々に幸せをもたらすことは明らかで、最大幸福になり得るのは「陽菜の犠牲のもとの晴れ」である。しかし帆高は、陽菜を犠牲に成り立つ幸福を拒否する

天気なんか狂ったままでいい、関係ないと放棄宣言をして、陽菜を取り戻す。ここには大切な人を守りたい、という意志が見られる。だからこそ、「天気の子」は、セカイと君を天秤にかけて、君を選ぶという、「選択の物語」なのである。



 「すずめの戸締まり」でも、これと同じ構図が成り立つのは言うまでもない。要石として犠牲になる草太と、人柱になる陽菜。地震が引き起こされる一歩手前で犠牲になり得る東京の幾万もの人々と、雨に沈む東京。「天気の子」との明確な対比が見られることは間違いなく、「すずめの戸締まり」でもまた、世界と君が天秤にかけられていることがわかるだろう。


 では、「すずめの戸締まり」において、主人公鈴芽はどんな選択をしたか。ここに、「天気の子」の帆高との明らかな違い、ひいては高次元への成長を遂げた主人公の姿を見出したい。

 東京のミミズが空を覆い尽くし、今にも地震を引き起こしそうなとき、鈴芽は草太を犠牲にして地震を防いだ。要石となった草太は東京の地下にある扉の中、常世に幽閉される。つまり、世界と君を天秤にかけたとき、鈴芽は「世界」を選択したことになるといえる。

本作では大勢の命が懸かっていることから、もちろん「天気の子」よりも遥か大きな天秤であることに間違いはないが、異なる選択をしたという事実もまた、間違いではない。


 この違いはどこからくるのだろうか。なぜ鈴芽は、最大幸福を選んだのか。それは、鈴芽自身が「あの日」の被災者だったからだ。鈴芽は、あの日の犠牲者だった。突然失われた日常とその怒りと苦しみを知る鈴芽だからこそ、最大幸福を選び、大勢の命を救わねばならなかったのだ。たとえ、好きな人を身代わりにしても。

 
 しかしながらさらに、鈴芽は草太を身代わりにすることも拒否する。一度自らの手で犠牲にした草太を、今度は自分の手で救いに行くのである。

 
草太のアパートで血に塗れた足をゆっくりと洗い流していく場面では、鈴芽の明確な意志を感じることができる。
本作の特徴は、真っ直ぐで勇敢な少女の姿が描かれている点だ。瀧と2人で協力して災いを乗り越える三葉でもなく、帆高に救われ共に地上に降り立つ陽菜でもなく、そこには一人きりで好きな人に逢いに行く、勇敢な少女がいる。


 「天気の子」では、主人公とヒロインのハッピーエンドの裏に、世界のバッドエンドが描かれた点に賛否両論があった。

選択によって生まれる犠牲を背負わない彼らを肯定する物語に、無責任さを覚えるとした声もあった。

しかし今回の「すずめの戸締まり」では、犠牲になった側の気持ちを汲み取れる主人公と、さらに勇敢な主人公が、犠牲となった一人をも助けるという、いわば両方とも「救う」という結末を導いた。
確実に主人公像が高次元へと進歩している。帆高と鈴芽では、主人公の成熟度が格段に上がっている。


 「君の名は。」「天気の子」と、「すずめの戸締まり」は、災害三部作として肩を並べるが、前二作と比べて本作は、前二作で持ち上がった問題点を綺麗に克服し数段レベルアップさせ、さらに磨きをかけた、集大成と言っても過言がないほどの作り込みようであると言えるだろう。


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