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52ヘルツのクジラたち/【読書report】

一気読みした。かなり悲痛なストーリーだが、文体が重たくないせいか、あまりどろどろしていない。主人公の貴瑚に、「病んでる」感を出していないからかもしれない。初対面で無礼な口を効く青年にビンタしたり、町のうわさ好きなおばあさん連中に辟易したりと、どこか他者に対して「強い」と感じさせる姿が最初に描写されるからだろうか。


過去を振り返ると、とことん排除され尊厳を無視されている子ども時期が描かれるのだが、それでも高校時代は親友の美晴とバイトに精を出し、良い就職先から内定をもらうところまで、健康度が高い。
義父の介護に心身を奪われる3年間は、まるで抜け殻が奴隷になったかのようだが、アンさんに出会って自立してゆく過程は、傷ついた野生動物が自力で巣立っていくかのような強さを感じさせる。
主税(チカラ)に出会って、彼のコンプレックスがゆえに囲われる身に堕ちてしまってはいるものの、「彼がいないとダメだ」という主体性のなさを感じない。どこか投げやりで、でも「愛」を信じたい、という強い気持ちが見えるような気がするのは、母親が再婚するまでの間、母親に愛されてきた(依存されてきた?)記憶があるからなのだろうか。

大分で出会った「52」も同じ。
ひどい暴力とネグレクトの末に性別も年齢もわからないような姿になっていてもなお、人を信じようとする力があるし、大事な人を大事だと思い、その人のために努力しようとする力もある。
子どもにはもちろん、可塑性があるし生きる力や柔軟性もある。とは言えこれもまた、幼い頃の数年、祖母や叔母に大切にされてきた時期があったからだろうか。

これはその二人の、誰かを大切にしたい、信じたい、という声にならない声が響き合ってできた物語だ。


虐待されていたりDVを受けていたりと、ひどく傷つけられた過去を持つ主人公たちの物語は、昨今ありふれている。多くの小説は、そういった主人公たちが一筋の希望の光を見つけようとあがき、落ちてまたもがく…という構成なのだろうし、この小説もそういった形を取っている。少し違うのは、その二人の間に、「アンさん」というトランスジェンダーの男性を介しているところだろうか。彼もまた、声にならない声を発し続けていた一人だ。

これは、そんなアンさんに、「52ヘルツの声」を拾ってもらった主人公、貴瑚が、今度は、自分が誰かの「52ヘルツの声」を拾いたいと強く願うという、与えられ、そして与える物語なのだろう。だからこそ、希望と生きる力を感じられる、そんな読後感だった。

「だからあの子は叱られたことも、思い通りにいかずに悔しい思いをしたこともなかった。でもそれは、可哀相なことよ。あの子は何もかもから自分を守ってくれていた父親から離れて初めて、世間に当たり前にある壁を知ったんじゃろうよ。水疱瘡やおたふく風邪と同じでな、小さな子どもの内に覚えておかなきゃならんことを大きくなって知るのは、ものすごくしんどいものよ。だから琴美も、可哀相な子なのよ」

「ひとというのは最初こそ貰う側やけんど、いずれは与える側にならないかん。いつまでも、貰ってばかりじゃいかんのよ。親になれば、尚のこと」


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