見出し画像

叱る依存が止まらない【読書report】

この本で、私は長年ちゃんと説明できずにいたもやもやが2つ解けて、頭が整理された気分になった。
なので、読書感想と言うよりも、自分の整理のつもりでreportします。

一つ目
「理不尽に怒られることなんて社会に出れば山ほどある。多少理不尽に怒られることくらい我慢できる子に育てた方がよい」という論理に、「違う」と感じながらも、十分反駁できないもやもや。

 他人から強制された我慢や苦痛は、人を強くしない。「学習性無力感」の実験からわかるように、「自分ではどうしようもない」と感じると、私たちは「あきらめ」てしまう。これは忍耐力とは異なる。

「この世は自分でコントロール可能だ」ということを学ぶことで、苦痛を我慢したり主体的に努力することができるようになる。例えば「状況を適切に判断し、失敗するパターンを回避する」「感情や欲求に流されず、やるべきことに取り組む」「目先の利益に飛びつかず、長期的な視点で判断する」「粘り強く試行錯誤し、改善策や解決策を考える」といった「状況に合わせて自分をコントロールする力」(非認知スキル)を身に着けることができる。

→ つまり、「我慢できるようになった」というように見える姿は実は、「学習性無力感」という現象であったということ。
確かに「馴化」と言って、どのようなストレスにも慣れが生じてしまうものだが、これは「無力感」に慣れて行っているということであり、「強くなっている」わけではないということ。叱られることに馴れてしまった人は、努力したり試行錯誤することができない人になってしまうということだ。(それでさらに叱られる…という悪循環になりそうだ)

二つ目
「依存」と「ただのやりすぎ」との違いを説明することが難しいもやもや。

・      「処罰感情の充足」も人間にとっては報酬となりうる。何らかのルールを破った相手に罰を与える体験をすると、報酬系回路の一つ背側線条体が活性化しているという実験があった。

・      叱ることは、多くの場合叱られた人の回避行動を生み出す。そうすると「効果が得られた」「自分には影響力がある」という満足感が得られる。これが報酬となる。

 依存の背景には、「自己治療仮説」が働いている。強い快感(報酬)だけが依存を引き起こすわけではない。元々、依存する側に、何らかの欲求不満や不安などの苦痛がありその苦痛をやわらげてくれる体験をすると、さらにその体験を欲する、というメカニズムが依存を生み出す。叱る側に「叱るニーズ」があるために「叱らずにいられない」という状態を生み出してしまう。

つまり、「依存」とは単にその対象にはまっている、という状態だけを指すのではなく、その背景にある「何らかの欲求不満」とセットになっている概念だった、ということが再認識された。
そういう意味では、単に「辞められない」状態だけでは、依存と認定するには不十分で、それにはまることでニーズが満たされている、という状態であることが必要だということ。

とってもわかりやすかった。

さらにこの著者は、発達障害の子どもを対象に学習支援を行う法人を立ち上げてもいて、色々な面で、自分の興味関心と重なることを精力的に行動に移している…ということがまた、共感を呼んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?