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日々よしなしごと~老後の始末~

今日、いつものように花をもらいに友人宅に行くと、花器があるからそれも持って行ってね、という。これまでも彼女が長年溜め込んできた布やら花入れやら、ちょっとした(と言ってもそれなりにセンスのいい」雑貨やらを受け取って来た。まだ、そんなものがあったのかと内心呆れつつも、どんなの?と好奇心もあったりして。

それは真鍮でできた可愛い蓋つきの容器で、楕円と円柱のもので味わいのある刻印の模様が入っているアンティークのものだった。

若い頃はこういうの見ると迷うことなく買っていて、迷っている人がいると不思議でしょうがなかったわ。これはこんな花を飾るとすごく素敵なのね、というので言われた通りに飾ったら、本当に素敵だった。どこまでもモノが持つ個性の目利きとそれを活かすセンスはかなわないなあと思う。


今日は高齢の知り合いのSさんが来られて少しお話しをした。この方はスポーツも地域のお世話も精力的にされていて、独身ではあってもいつも充実した毎日を送っておられた。ところがこのコロナ禍でそんな活動がすべてストップになった。それまで一緒に活動をしていた友達も、なんとなく気分が落ち込んでいて前向きな気持ちにならないらしく、しょうもない日々を送っている。だけど、年金やら厚生年金やらとお金は入って来るけど、使いようがないと。このまま年を取って終いには、自分で食べられなくなって、トイレにも行けなくなったら姥捨て山に捨てて欲しいという。誰にも迷惑かけたくないし、自分の死に方は自分で決めたいから、という。この方は先日のALSの方が安楽死を望んで、それに応じた医師が手助けをして亡くなったという事件を例に挙げていた。

お金はあっても、生きがいもなくつまらないからそんな風に考えるかもしれないが、正直なんと身勝手な願いなんだろうと思った。この時代、自分で自分の死に方など決められない。戦国時代の武士なら、生き様も死に様も決めることはできたかもしれないが。そもそも生きることも、死ぬことも自分一人では何もできない。亡くなって誰も嘆く人がいなくても(そんなことはないと思うが)、誰かがその始末をすることになる。自分以外の人への想像力が全くないように思う。ある意味なんと空しい人生なんだろうと思ってしまった。

このコロナ禍で、多くの方が亡くなってあの志村けんさんも急逝された。遺族の方が、志村さんが病院で亡くなってそのまま顔を見ることもできず、お骨になって帰って来ただけだったと、涙で語ってたのが印象的だった。志村さんの死は大きな衝撃だったが、亡くなっても最後のお別れもできないことに、さらに悲しみと恐怖を感じたのではないか。まさに死に方は選べない。

だとしたら、やっぱり今生きている時が大事なのだと改めて思う。かのSさんも、姥捨て山に捨てて欲しいから姥捨て山を復活して欲しい、などと現実離れした自分勝手な妄想はやめて、自分の残りの人生を実り豊かに生きて欲しい。しかも経済的にも豊かで、もともとお元気で行動力もある方なので、いろんな社会に貢献したり還元したりすることだってできるはず。経済的に困窮して生きていくのに精いっぱいの人たちも多い。

このコロナ禍で、世界も日本も最も感染爆発が起きたところは貧困地域で、このような災厄は、社会から見捨てられた場所、虐げられた人々のいるところから大きく広がっているという。だからその人たちに施しをして欲しいということではない。せめて、長く生きてきた人の深いまなざしで、社会を見て欲しいと思う。まあ、人生の大先輩に説教をするのおこがましいが、この今の世の中でつぶやく言葉としては少々いただけないなあと思うのである。そう言う私も、こんな時だからこそ、一日一日を大事に生きて行かないとね。はい。


花の友人は、暑くなる前の早朝に、次の花を咲かせるために黙々と花の世話をしているだろう。


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