おとなの受容

センジュ出版さん発行の『ロバート・ツルッパゲとの対話』トークイベントに行ってきた。

今日話したいのは著者のワタナベアニさんと、センジュ出版の吉満さんがとても好きだという話。

好きと好きが一緒になるのは最高だなあぁと思って3駅くらい歩いた。(本当は迷っただけ)


最近、具体的に言うと昨日、考えを言葉にすることが大事ですよと言われ、自分はそれを本当に怠ってきていると言う自覚があったので、まずは今日の気持ちから言語化してみようと思う。


アニさんは、主にインターネットで見ている人なので、その上での話しかわからないけれどそこから感じていること。(一度だけイベント?でお会いした)

吉満さんはこれまでお悩みを聞いてくれたり色々と大切な話をさせてもらっていたりする中で、2人に共通して感じているのは「受容体と発信の技術のどちらもがある」という点が尊敬している。

おふたりともメディアの方なので、発信の技術(それは目先だけを見たさもしい技術の話ではなく、受け手に対する適切な発信の技術と言う意味)については容易に頷ける。

しかし私が特に感じるのは「受容体」の方であります。


私は常に「丸腰でいたい」と言うモットー(というと一気にかっこ悪くなるけれど)を掲げたりしながら過ごしている。

コーヒー屋っていうのは誰からも尊敬されるような職業じゃない。そしてそれでいい、それだからいいって思っている。

おふたりともメディアの方で、きっとこれまでいろんな人、有名人にも会ってきたと思うが、わたしが直接に話した時の印象は、このなんでもない人間の話をまっすぐに聞いてくれる大人という印象でした(わたしはいつまで年上の人を大人と呼ぶのか…)。

それは体験としていつも嬉しく、同時によくできるな、と思う、それは自分をずっとやってきた感覚で確かにそう思う。こういう態度を見せられる人は大人でなかなかいません。

そしてそれはわたしに対してのみでなく、他の人に対しても同じ目線で。

言語化するとするととても難しいのだけど、話している時に物理的にではない意味できちんと目を見て話を聞いているという感覚。この人聞いてないなっていうのは、物理的に目が合っていても感じることってあるよね。(あるよね…?)

そういう人は悪い意味で「賢い」人が多いのだけど、その先のことやそのまた先のことを頭に浮かべていて、今ここにあり発されている言葉をぐちゃぐちゃに料理されてしまっている感じがするのです。言葉を搾取されたくない、と思い口をつぐむ。

そうではなく、ここにある言葉と態度を紛れもなく受容してくれているという確かな感覚があるので好きなのですね。


誰であろうが目の前にいるこいつ、それをちゃんと受容できることって年を重ねるほど難しいと思う。

だってそうじゃない受容をする方が圧倒的に楽だしスキルも要らないから。

例えばハッピーをやる宗教の人は、ハッピーがベスト!何があってもハッピーがサイコー!それって思考を停止している。

ビジネスの人は「成果」「結果」「そこまでの逆算」みたいなことをよく言う。それってその文脈から抜けた時に何にもならないですよと思う。

とはいえ宗教は利用方法によって価値になるので、それとわかっているならいいけれど、何かを無心に崇めたり信じたりすることは、思考や受容の放棄だとわたしは感じる。


だからおふたりのような人がいると、わたしは大変救われた気持ちになります。

世界にこんな人がいるということを体感できることがそれだけでもう嬉しいね。好きだね。


わたしが何者であるかは何かの肩書きや有名な知り合いの名前、所属している組織の名前で判断するのではなく、わたしそのものの態度で受け取ってほしい。

おふたりを好き、と思うのはそのスタイルが近いからなのだろうと思います。勝手な想像にすぎませんです。


生きているうちに、尊敬するなぁと思う人に会えて話せることは貴重なこと。レオナール藤田はピカソと出会っているんだよ、モディリアーニとお友達なんだよ、なんかすごいよね。でも当然のような気もする。

出会いに感謝、とかスピっぽい気持ちを持ちながら、スピだって誰かを救ってはいるよねと念の為免罪しておきます。

センジュ出版さんは小さな出版社さんなので、本が届くのに少し時間がかかっているみたいだけど、

時間がかかることは楽しみを増幅させる装置にもなる、そんな気もします。(さて発注をぜひ)

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