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殺されることについて、殺させない意味について ―イスラエルによる虐殺―

文責:疋田香澄
(送付係)


 あなたは殺されそうになったことがありますか?私はあります。
 ですので、殺されることについて自分の考えを書こうと思います。

 現在、イスラエルがパレスチナ・ガザ南部のラファで大規模な虐殺を進めています。これまでもイスラエルは、南部への「避難」を民間人に要求しながら虐殺を行ってきました。ラファは最南端にある小さな地域で、そこに140万人以上の避難民と住民が追い込まれています。
 4ヶ月間で、イスラエルに殺された民間人は2万8千人を超え、そのうち子どもは1万5千人以上とも言われています。
 人間の想像を超える虐殺、ジェノサイドが現在進行形で起きています。SNSを検索すれば大量の死者や悪夢のような暴力が目に入ります。ある地域を根絶やしにし0歳の赤ちゃんも含め殺そうとする試みに、私たちは言葉を失ってしまうでしょう。

 死は、すべての人間に平等に訪れます。けれど、「人間によって殺される」ことは全く違うんです。
 私の場合は「ああこうやって何かに巻き込まれて、わけが分からないまま殺されるんだ」と思いました。思考というより感覚でした。自分をとても小さい存在に感じ、「意味」や「時間」や「言葉」がぼろぼろと身体から落ちていきました。そして自分は殺されるに値する存在なのだと、不思議な罪悪感を持ちました。
 今この瞬間にも、激しい痛みと絶望を抱えながらガザの人々が殺されています。私たちが言葉を失っている間に、人間が人間を殺し尽くそうとしています。

 私が加害者に責任を問うたとき、加害者は自分がいかに可哀そうな存在かと泣きながら語りました。「そうではなく、私は殺されそうになりました」と言うと、加害者は「ああ、あなたもそこにいましたね」と返したのでした。
 これはイスラエルの語りにとても似ています。自らの悲劇の物語に埋没し、本当の意味では自分以外何も見えていないのです。ただ、他者の命を踏んでいるだけなのです。
 私たちはつい、「殺される」側に何か問題があるのではないかと思ってしまいます。何か殺されるに値する理由があるのではないかと目を凝らします。意味もなく殺されるなんて想像もしたくないから。しかし、いつだって問題を抱えているのは「殺す」側なのです。

 人間の理解を超えるこの虐殺が許されてしまえば、私たち人間は皆「殺してはいけない」という根源的な倫理すら失ってしまうでしょう。誰かが殺されてもよい世界は、私やあなたも殺されてよい世界になります。

 ここまで、「殺す」立場―「殺される」立場の話をしてきました。パレスチナ以外に住む私たちは、どの立場にいるのでしょう。見ているだけしかないのでしょうか。
 私たちは、「殺させない」ことが可能な立場にいます。「殺す」側は「殺す」ことを自分でやめることはできません。その行為に深く依存しているからです。
 もうこれ以上、殺させてはいけない。見ている私たちが勝手に絶望してはいけない。「殺させない」ことでしか、世界は人間性を回復することができません。
 パレスチナ・ガザの人々に生きる価値があることを、決して殺されてはいけないことを、「殺させない」という姿勢を通じて強く強く世界に伝えましょう。

 もっと「殺させない」ための言葉を、もっと「殺させない」ための行動を、一緒につむぎましょう。
 私とあなたの生きる意味のためにも。