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『いい子のあくび』(高瀬隼子 著)

『犬のかたちをしているもの』で好きになった作家、高瀬隼子氏のすばる文学賞受賞後の最初の作品とのことです(「すばる」2020年5月号掲載)。

以下は集英社の紹介文。

実家で、学校で、職場で、恋人の家で。公私ともに、直子は「いい子」。でも、悔しい。ぶつかってくる男をよけるのは、コーヒーフィルターを補充するのは、なぜいつも私でなければいけないのか? 女だから? 「割に合わなさ」を叫ぶ、すばる文学賞受賞第一作。

著者と高橋源一郎氏との対談では、以下のようなやりとりがあります。

高橋: 何でこんなのあるんだろうとか、何でこうなっちゃうんだろうということを書いていきたいですね。もちろん女性としてむかつくことは、多々、多々、多々ありますけど、それだけではなく、性別関係なく人間としてむかつくことを、書いていきたいなと。
高橋: あ、いいですね。
高瀬: 二作目、三作目と書いているうちに、自分のむかつくことが空っぽにならないといいなと思います。まず、二作目、むかつきながら書き始めてはいます。

そしてその二作目が、本作です。
本作の特徴はなんといっても、その「多々、多々、多々」あるむかつきが、作品をびっしりと埋め尽くしていることです。

主人公の直子は、日常の中で起きるあらゆる出来事に何かの「むかつき」を感じ、それをノートに書いています。

朝の駅、歩きスマホにぶつかられる
マンションの前でタバコ、ベランダから水をまく
桐谷「お金持ちと結婚しなよね」と繰り返す、ばか部長、クレーマーの電話の後「アスペかよ」と言う

忘れない、と思う。わたしは絶対に忘れない。それがあったことも、その時に発生した怒りも不快も、時間が経ったからって許さない。(本書)

この「むかつき」の密度がすごくて、直子の生活のなかでの行動や出来事ほぼ全てが、この「むかつき」により意味付けされている感じがします。

小説としての読み方とは別に、著者が上記の対談で「自分のむかつくことが空っぽにならないといいな」といいながら、二作目にしてこれほどの「むかつきのネタ」を出し惜しみなく披露しているのがすごいと思いました。

これほどのむかつきで満たされた内面とは反対に、直子は社会的に一貫して「いい子」で通っています。しかし、それは擬態で、直子は極めて意識的にそうしています。

恋人の家族と会った時のことを言う箇所など、強烈です。でも面白くて、うまいなあと思いました。

大地の家族と会った日にかぶっていた猫は、着ぐるみどころじゃない。この世に存在するありとあらゆる愛らしい猫ちゃんの皮を全部はいできて継ぎ足して、それでも足りない部分はキティちゃんやおしゃれキャットマリーちゃんで補強して作った、最強猫ちゃんで、そこにはわたしの要素はひとつもなかった。(中略)元の顔なんて、着ぐるみの中で蒸れて擦れて潰れて変色もしちゃって、原型がない。(本書)

直子がこのような擬態を身につけるきっかけになったこととして、直子の幼いころ、母親に対して祖母(姑)が暴力を振るっており、その祖母から「やな子」と思われることを恐れていたことが示唆されています。

直子は、そうして擬態することを飲み込むうち、それが割に合うこと、釣り合いがとれることを求めるようになったようです。
そして、どうしても割に合わないと感じたことについて、「いい子」であることをやめる行動に出ます。

それが、歩きスマホで突っ込んでくる人を避けてあげないこと。
この小説は、直子の一言、「ぶつかったる。」の宣言から始まります。

直子はその結果、人に怪我を負わせることとなり、私たちから見ても、割に合う結果を手に入れたとは見えません。でも直子は次のように考えます。

わたしは、わたしが悪い時でも、わたしは悪くないって主張する。だって割に合わせただけだから。(中略)わたしが悪かったって認めたら、それは、わたしが割に合わないことを受け入れて生きていかなきゃいけないってことになる。顔をあげて前を向いて歩いている人ばかりが、先に気付く人ばかりが、人のぶんまでよけてあげ続けなきゃいけないってことになる。(本書)

世間は他人に対し、特に子どもや若い女性に対し、「いい子」でいることを求めます。
しかし、「いい子」であることは他人の求めに応じた意識的な行動であって、本人には負担でもあるのに、他人はそれに気づかずに、ますます負担をさせようとします。

そこに反抗する直子の行動は、結果として非難されるべきものになってしまったかもしれませんが、痛ましい感じもします。
直子の最後の祈りは、かなえられたのでしょうか。

小説(物語)としては、私は『犬のかたちをしているもの』や『水たまりで息をする』のほうが、やはり優れていると感じますが、生活していくなかでの理不尽に対する著者のアンテナの感度がこの作品では全開で、個々の表現や描写も「そうそう」と感じながら読んでいて非常に面白いです。

改めて今後の作品も本当に楽しみだなと思いました。

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