2019.11.10


お昼頃起きて、地下謎を少しやってパレードなので今日は諦めて、漫画喫茶に行って鬼滅の刃を読んで、あなだ作ってくれた豚汁を食べて、アニメを見て、日曜がおわり。

さて、今日の最後に、日記。


ヴァイオレットエヴァーガーデン11話の親子の話を見て、思い出したことがある。

昔はよく、大事なものほど終わりを考えてから行動していた。

食べ物は嫌いなものから食べて好きなものを残す、というような小さいことから、修学旅行がすごく楽しかった時には、終わりがくるんだ、ということと、楽しいと思ったことをちゃんと心に刻むことを意識しながら過ごしていた、とういうようなことまで。


そのなかでも強く終わりを意識した印象にあるのは、お母さんの死だった。


小学校中学年くらいの母の日の時、飾っておけるメッセージカードのようなものを買って、何を書こうかな、と考えた時に、ふと、お母さんが自分より先に死ぬであろうことが意識されたのだ。

大好きだな、とか、一緒にいられて嬉しいな、とか思っているタイミングでの気づきだったので、いきなり暗闇に落とされたみたいな恐怖があったのを覚えている。

「ありがとう」を伝える予定だったのに、結局書いたのは、「長生きしてね」。今おもうと、まだお母さんが40代前半くらいのことだから、あまりにも早い心配で、少し笑えてしまう。けど、あの時は、すごく切羽詰まった気持ちだった。


それからたまーーに、両親のどちらかが死んだ夢を見てすごく悲しい気持ちになって起きる時がある。

あれ以来、親の死を考えることはそんなに多くないけど、おそらくその原体験が心に強く残っていて、そういう夢を見させるんだろう。


これを書いていて、その時親が40前半だったことに気づいた。昔よりもその年代が身近で、あの時の親に対して親近感があるとともに、今の年齢が感じられる。お母さんも、もうこんな歳なんだなぁ。

あの時みたく、「長生きしてね」と切羽詰まった気持ちで書くことはないけど、やっぱり怖いし、元気な長生きをしてほしい。

大人になったから、メッセージカードよりもふたりで共有できる「機会」をプレゼントしてあげられることが嬉しい。今月末は、親子ふたりで温泉旅行だ。

 

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