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ドレッドの中古新入生

  2011年、大学は震災により、
入学日程が大きく変更された。 
早稲田は入学式がキャンセルされるなどの
ニュースも出ていた。 
韓国の友達の中では、
日本行きを反対する者もいたが、
「学校からの連絡はまだ?」と
聞いてくる親は意外なことに、
早く日本に行ってほしいと
思っているようだった。
たくさん迷惑をかけてきた息子が
早く新しい人生を歩んでほしいと
思ったのだろう。
学校から新しいスケジュールの連絡と、
入寮の案内が来たところで、
渡日の日程が決まった。
韓国での生活に疲れていたこともあり、
「早く日本に行きたい」
そう思いながら、しばらく会えなくなる
友達と飲みに行ったり、
向こうで必要な準備を進めるなど、
残りの時間を過ごしていた。

自分では「遠足前日理論」という
言い方をするが、
楽しみにしている何かが始まった後より、
むしろ、その前までが一番楽しいのでは
ないかと思う事が多い。
週末が始まった土曜より、
仕事が終わってから迎える金曜の帰宅時に
もっとも幸せを感じる事と同じで、
今考えてみると、大学に受かり、
ワクワクしながら日本ではどのような
生活が待っているのだろうと、
夢と希望で胸膨らませていたあの時期が、
もっとも幸せな時間だったなと思うことが多い。

別れの空港で、親に挨拶をし、飛行機に乗ると
2時間ほどで成田に着いた。
東京は暖かかった。
桜が満開した道をたどりながら、
目的地、川崎市幸区にある大学の国際学生寮につく。
定員15~20人ほどと、思ったより小さなところで、
同じ時期に入寮したのは自分を含め、韓国人6人。
ほか、ヨーロッパ系、インド系の学生さんとかもいたが、
結論からいうと、自分はサークル活動などで、
寮のイベントに参加することも少なく、
最後まであまり接点がなかった。

入居して間もなく、大学の日程が始まった。
ポールスミスのトートバック、
ドレッドヘア姿で参加した入学式が終わり、
会場を出た瞬間、目の前は、サークル入部を
勧誘する人たちでごった返す。
「お~お~」 日本のドラマで見てたあの光景だった。
自分は高校を卒業したばかりの現役でもなければ、
頭はドレッドで、 チラシ配りの先輩たちの顔から
「あれ?どっち?」という戸惑いの表情が
伺えたのが面白かった。
その中で一人、誰かがチラシを渡し、
それを受け取ると、次々とチラシが渡された。

その人波から離れ、一人で中庭を歩いていると、
満面の笑顔で接近してくる人たちがいた。
やたらと親しく話しかけてくれる先輩たち。
渡された茶色のチラシには
「黒人音楽同好会」という黒い文字が。
キャンパスをキョロキョロするドレッドを見かけ、
「こいつだっ!」と思ってくださった方々だった。

2011年は、上で書いた学校のスケジュールの
乱れの影響で、 健康診断と新歓期が
被ってしまった。
学校から、健康診断当日は検査を受けやすい格好で
来てくださいと案内があったため、
ジャージ、ニット帽、(度きつい)メガネで登校するも、
自分のような格好をしている人は誰一人いなかった...

検査を受け終えたジャージメガネは、
少し興味のあったテニサー(テニスサークル、華やか系)の
部員を見つけ、
「あのー、チラシもらえますか」と話かける。
すると、「はい!」と笑顔でこちらを振り向く
顔が一瞬で曇った。
手にもったチラシを慌てて隠しながら
「いや、ないです」と返すその顔が険しかった。
その瞬間私は、
華やか系のテニサーに入ることを断念した。

それでもはやり「The定番」とも呼ばれる
「テニサー」に対する未練が捨てられず、
マジメ系のテニサーに入るも、
今度は、ジュースコップ1/3ほど頂いた
カシオレを片手に
優しい先輩との話は進むが、お酒が進まない、
練習は体育会のテンションと、
テニスがメインのテニスサークルだったので、
また断念。
結局テニサーとは縁がないという形となってしまった。

韓国時代、『みんなのゴルフ』が
好きだったこともあり、
ゴルフには興味があっためため、
韓国から父のクラブを持ってくるほど
ゴルフサークルは入る気マンマンだった。
一番規模の大きいところへ挨拶に行くと、
同じ学部の先輩が、
サークルのことだけでなく、
学部、学校生活に関してまで、
色々と親しく教えてくれたので、
その場で仮入部を決めた。
その後、打ちっぱなしの練習会に行ったものの、
その先輩の姿はなく、
そこにいた別の先輩は、
1年のカワイイ女の子に夢中。
透明人間扱いをされたあの日を持って退部。

学校外でも知名度の高い有名なイベントを
主催している某サークルにも
興味があり、新歓期、先輩を見つけ話をかけると、
笑顔でチラシを渡してくれた。
たまり場に行ってみると、
面白がっててくれて、
なぜか歓迎されるムードだった。
そこは、大学のいわゆる 
3大「チャラサー」(チャラいサークル)と
呼ばれているところで、
クラスの同期とかにそのサークルの名前を出すと、
引かれる、そういうところだった。

大学入学当初から、
「ほかの留学生には絶対できない
 日本ならではの経験がしたい」と
思っていたことはあり、
ほかの留学生が国際交流サークルに入るとき、
自分が選んだサークルのひとつが
こちらのサークルだった。
活発(?)な方々のほうが、
すぐ仲良くなれるだろうという戦略もあった。

もっとも興味のあったダンスサークルは、
ストリート系のものが三つあった。
 ① 体育会系とも言えるほど練習量が多く、
  部員は最も少ないが、
  個々人の実力はもっとも高い、
  Aサークル。 
 ② 唯一のインカレのダンスサークルで、
  いろんな大学の学生が集まった
  華やかな雰囲気の、
  Bサークル。
 ③ 内部生、帰国子女が多く、
  リッチかつ自由な雰囲気の、
  Cサークル
三つのうち、どこに入るか悩んでいた。
新歓公演で一目ぼれした、
Aサークルに入部しようとすると、
ジャンルごとに 5回行われる練習会に
すべて参加する必要があるとのこと。
Breakの練習会ではなかなか
苦労したものの、
なんとか5回の練習会を乗り越え、入部した。
あの練習会は、ガチでやる気のある
やつだけを受け入れるための
フィルタリングのようなものだったと思う。
ところが、Aサークルでは、
やはり兼サー(サークルの掛け持ち)が難しく、
兼サーをしている人がいても、
やはりメイン活動は、9:1で 
Aサークルになるケースが多かったので、
いろんな経験がしてみたかった
自分としては、
「ここで大丈夫だろうか」
という葛藤はあった。
まぁ、ダンスサークルって
練習しなと舞台に立てないので、
どこも束縛時間はそこそこあり、
自然とそこで生き残る人は
ダンスはメインな人が
圧倒的に多いというはあるが、
サークルの雰囲気が違うと
活動の範囲も変わるってくるので
慎重に選ぶ必要があった。
そこで、Bサークルが、なんとインカレで、
色んな大学の女子が集まるという
聞き捨てになれない情報を聞いたこともあり、
悩みに悩んだ結果、
新歓合宿の直前に、
Aサークルをやめることにした。
「えー寂しいな、朴にはウチで頑張ってほしい」と
 言ってくれる優しい先輩の
言葉を後にし、インカレに乗り換え。

残念なことも、
ときには疎外感を感じることもあったけど、
それでも新歓は楽しかった。
1年生だというと基本歓迎ムードだったので、
仮入部したサークルも多く、
朝、iPhone4(当時最新機種)を確認すると、
何十通もメーリス(サークルからの全体メール)が来ていた。
大学は4年だが、客(?)として新歓を楽しめるのは、
一度だけなので、
いろんなサークルのイベントに
参加したのを覚えている。

結局サークルは、 個性の強い者だけが
生き残るキャラ戦争のイベントサークルで
高齢の外人枠として何とか延命。
ダンスのBサークルでは、
時には寂しい思いをしながらも自分なりのノリで、
HOUSEを踊っていた。
夏には、イベントサークルの合宿に参加し、
夕暮れの砂浜で熱い涙を流したり、
秋には、Bサークルの公演で、
学園祭の舞台に立つことも。
大きいサークルばかり入ってたので、
日吉キャンパスに行くと、
何百人の同期が自分の名前を呼んでくれる、
そういう毎日だった。
朴は、
学校ではちょっとした有名人になっていた。
毎日が刺激的で、
自分なりにはキャンパスライフを
楽しんでいると自負していた。

しかし、 サークルの活動がない日や、
週末などは一人になることが多く、
その時、ふと自分には
「サークルの仲間」はいても、
「友達」がいないということに気づいた。
どこかで、サークルの仲間が
自分たちで遊びに行ったという話でも聞くと、
自分は呼ばれてないと、
ちょっぴり寂しい思いをしたこともあった。
 そのとき「ハブられる」という
言葉の意味を知った。

「カラッポ」

一見充実してそうに見えていた
自分のキャンパスライフは、
親友一人いない寂しいものだった。

そんな中、初めてできた友達が、I君だった。
1年の秋学期に受講した英語セミナーで
知り合ったヤツで、
LINEを交換すると、週末突然「メシ行かない?」と
連絡が来た。
I君は、韓国人、外国人、という色メガネをかけず、
純粋に学校の友達として、
俺と接していた。
嬉しかった。
その後、I君とはちょくちょく遊ぶようになった。
I君以外、英セミで一緒だった
T君を入れた3人で、
東横3兄弟(朴:日吉 / I君:綱島 / S君:元町中華街)を
結成し、 互いの誕生日を祝ったり、
飲みに行ったりした。
I君は「明日も練習だ!」と
お酒を飲むことはあまりなかったが...

11月の学園祭のときは、
イベントサークルの手伝いとダンスの公園、
年末にはサークルの飲み会に参加し、
自分が企画したクリスマスパーティに
友達を呼ぶこともあった。

そうやって1年が終わった。


つづく。