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『youthful days』の歌詞について【前篇】

起き抜けに聴いたミスチルの『youthful days』という曲がどうにも頭から離れなくて、何度聴いても毎回唸ってしまってなかなか寝れないので、なんとなく気になっていたこの曲の歌詞について考えてみることにします。

今日まではなんとなく適当に聴いていたので、「なんか2番のサビの後の歌詞、ちょっとエロいな」「でもなんか爽やかな曲だな」くらいにしか思ってなかったんですが、よくよく歌詞を読んだりあんまり良くないけど「youthful days 歌詞 考察」とかで検索したら、なんか全体的にエロい感じで意外でした。

にわか雨が通りすぎてった午後に
水溜まりは空を映し出している
二つの車輪で 僕らそれに飛び込んだ
羽のように広がって 水しぶきがあがって
君は笑う 悪戯に ニヤニヤと
僕も笑う 声を上げ ゲラゲラと

1番Aメロ〜Bメロにあたるとこの歌詞はその名の通り「youthful」な情景が広がっていて、ここの部分を聴くたびに私は存在しない初夏にぶん殴られたような気分になります。

ここで、これから『youthful days』の歌詞について考えるに当たって、僕が特に注目した要素が二つあります。

それは、「渇き」「潤い」です。

この曲には、一貫してこの「渇き」「潤い」という二項対立が描かれているような気がするんですよね。

上掲の1番Aメロ〜Bメロの歌詞には「にわか雨」、「水溜まり」「水しぶき」といった「潤い」や「瑞々しさ」を感じさせるワードが散りばめられています。それによってか、繰り返しになりますがまさに「youthful」な情景が広がっていて「君」と「僕」の青春のようなものが描かれているパートですね。

あと、

二つの車輪で 僕らそれに飛び込んだ

っていう歌詞は「自転車を二人乗りする君と僕」っていう情景を表現していると思うんですけど、なんで「自転車の二人乗り」って青春の象徴みたいになってるのかちょっと気になりませんか?「体が密着するから」とか「スリルがあるから」とかそういう理由も勿論あると思うんですけど、今回はもっと面白そうな仮説を考えてみました。それが、

「絶えず漕ぎ続けなければバランスを失って倒れてしまう」という「自転車の二人乗り」という行為の内包する「不安定性」が、若者の精神的な不安定さや、そこに起因する彼らの恋愛の不安定さと結びついている

というもの。常にペダルを漕いでいないと不安定になってしまう二人乗りと、ちょっとのことで一喜一憂して情緒が不安定になってしまいがちな若者の恋愛(中高生を想定してしまうけど)って、なんか似てませんか…?(既出の仮説だったらすいません!特に調べもせずつらつらと書いてます)

しかし、そんなキラキラした「君と僕」の青春も1番Cメロに入ると、少し様子が違ってきます。

歪んだ景色に取り囲まれても
君を抱いたら 不安は姿を消すんだ

ここでは「歪んだ景色」「取り囲まれる」「不安」という表現が使われているように、主人公である「僕」の抱えるネガティブな側面が描かれます。

「歪んだ景色に取り囲まれる」という表現は、社会の構造についてあまりよく知らない若者が、それでもなんとなくその社会に対して違和感や居心地の悪さを感じている、という微妙な心情を的確に表現していると思います。

そして、そのネガティブな「不安」を打ち消すのが「君を抱く」という行為。歌詞の文脈的にはセックスのことだと捉えるのが自然かもしれません。

そしてサビに入ると、「君」と「僕」は激しいセックスに体を委ねます。

胸の鐘の音を鳴らしてよ
壊れるほどの抱擁とキスで
あらわに心をさらしてよ
ずっと二人でいられたらいい

ここで気になるのが「胸の鐘の音を鳴らしてよ」、「あらわに心をさらしてよ」と相手にお願いするような表現。ここでは、主人公である「僕」から「君」への望みであると解釈できます。

つまり、「僕」は「君」に「胸の鐘の音を鳴らしてよ(=心を強く動かしてほしい)」、「あらわに心をさらしてよ(=嘘偽りない感情をむけてほしい)」と望むように「壊れるほどの抱擁とキス(=セックス)」をしているのです。

ここに、はっきりと表現されるわけではないものの、「僕」の「渇き」、「満たされなさ」の要素が見え隠れしています。

さらに、1番Aメロ〜Cメロまでの表現から推察するに、このサビでのセックスにおいて彼の「望み(=渇き)」は満たされています。なぜなら、先述のように1番Aメロ〜Bメロには「瑞々しさ」が描かれているからです。また1番Cメロには端的に「君を抱いたら不安は姿を消すんだ」と表現されています。

なので、1番で描かれたストーリーと時系列を簡単にまとめると、

  1. 心が満たされず、社会に対しても違和感を抱き、不安な気持ちの「僕」がいた

  2. 「僕」と「君」が出会った

  3. 「僕」は「君」とのセックス(恋愛でも可)によって心が満たされるようになり、不安からも脱することができた

ということになります。主人公である「僕」にとって「君」との出会いが、その存在がどれほど重要であったかがわかるのがこの1番なんですね。

また、1番サビ最後の「ずっと二人でいられたらいい」という歌詞は個人的にとても好きで、こういう「ずっと」あるいは「永遠」とかいう表現って、大人になるとなかなか使えなくなる表現だと思うんです。なぜならそんなものは存在しないから。どんなものにもいつか終わりが来るということを知っている大人は、なかなか「ずっと」なんて表現使わないんですよね。

でも子供とか若者って、そんなのお構いなしに、しばしば安易に「ずっと」とか「永遠」とかいう表現を使いますよね。それはもちろん人生経験の不足に起因する浅はかさでもあるんですけど、同時に超純粋な「願い」でもあって、その向こう見ずなイノセンスさが僕にはとても輝いて見えてしまうのです。

なので、この「ずっと二人でいられたらいい」という一節は、「僕」の純粋な嘘偽りない願いなんだと思います。彼はきっと、永遠を本気で信じていて、それが一番幸せなことであると確信しているのでしょう。これも、主人公の若さゆえの未熟さや純粋さがシンプルかつ強烈に表現されている秀逸な歌詞だと思います。

しかし、2番のサビではこの「ずっと」という表現が「ただ」という表現に変わってしまっています。この変化が示すものは一体何なのか…?

さて、1番の歌詞について書いただけで2500字を超えてしまいました。本当に書きたかったのは2番の歌詞についてなのですが、明らかに書きすぎてしまいました。

ちょっと想像以上に長くなりそうなので、一旦ここで切ろうと思います。久しぶりに論文以外の長い文章を書いたので疲れました。

また今度、書きたくなった時期に2番の歌詞について書こうと思います。

では。



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