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ことばの意味と比喩と詩情のかかわり

この記事は筆者の独自研究によるものです。これらの議論をフォーマルな場に持ち込む場合には、内容を慎重に検討し、必ず充分な裏付けをおこなうようにしてください。

この記事について

以下の記事についてコメントするものです。

これは『いぬのせなか座』による現代詩アンソロジーである「認識の積み木」(『美術手帖2018年3月号』所収)の書評記事で、大滝瓶太というライターによって書かれたものです。内容としては私たちが〈詩〉を読むときに感じる詩情の源泉と考えられる要素について手短に考察するものになっています。「認識の積み木」が扱う考察は横断的で示唆に富むものですが、そのなかでとりわけ詩情という部分について展開した議論として、大滝の記事は興味深い意見を紹介しています。ただ、内容的にやや読者の誤解をまねく部分がある気がするので、この記事ではその点についてコメントしたいと思います。

ことばの意味理解

大滝の記事は「認識の積み木」が紹介する〈明示法〉という再認の過程(「ある対象Aから想起される知覚がなんであるかを考えた結果、それが当の対象Aであることがわかる」というプロセス)に触れて、無数の他者としての〈私〉による多重な意味解釈が一つの意味理解へと収束していく過程のなかで詩情が感じられるというような考察をしています。実際のところ、詩情や文学性と呼ばれるものが意味理解の際の認知的負荷がかかる過程において生じるものだとする説は、たとえば、以下の記事で紹介されている論文中でも触れられているもので、論としては比較的ポピュラーな理論です(なお、以下の記事は筆者が別の名義で書いたものです)。

この記事で紹介されている内海彰による論文では、理解容易な隠喩と理解容易でない隠喩とでは、そこから感じられる詩情とされるものの認知の仕方が本質的に異なる可能性があることも指摘されており、意味解釈が多岐にわたるということは詩情にまつわる重要なファクターであることが推し量られます。この意味解釈の多重性という点について、大滝は、自然言語処理における意味空間モデル上でのベクトル演算を引き合いに出しながら論を組み立てています。

ただ、ここが誤解をまねきそうな点ですが、そもそも私たちの意味理解の実際のプロセスが自然言語処理における意味空間モデル上でのベクトル演算のようなものである根拠は実はまったくありません。前提として、自然言語処理における意味空間モデルが人間の認知のシステムを説明するものだと考えている研究者はたぶんほとんどおらず、あれらはあくまで私たちの意味理解とよく対応することを目指している実用上のモデルに過ぎないと考えるのが穏当な捉え方です。そもそもという話であれば、私たちの言語の意味理解がword2vecのような語彙分布仮説にもとづく意味空間上でモデル化できる理由がまずよくわかっていない現状があり、したがって、私たちの意味理解が単語の意味の線形演算であると認めるべき妥当な根拠はありません。

実際「舞い落ちる桜の花びらは雪だった」も「惑星が口笛を吹いた」も意味の計算は可能で、どちらについても任意の単語埋め込みから一意のベクトル表現を得ることはできます。ただ、それらを計算することが表現が伝えようとする比喩としての像を理解することなのかは怪しいところですし、極端な話、それは「桜の花びらは桜の花びらだ」のようなトートロジーであっても同様です。

意味空間モデルとは何か(何ではないか)

私見ですが、自然言語処理における意味空間モデルというのはわりと古典的な言語学の成果から派生してきた経緯があって、基本的に単語(形態素)を意味を担うラベルとしたうえで、それらを演算することによってことばの意味を処理できるようにしようというアプローチをとるものです。ここで想定されている言語の意味空間というのは、意味の関係性が史的変化しつづける任意の〈言語〉という現象について、実際の言語の運用のされ方にもとづいて、ある一時点におけるラベルの意味の関係性を適当な空間に写像したものだと理解できます。

このような実用上のモデルという側面でいえば、word2vecのような、ある単語が意味を占める領域をユークリッド空間のなかに点推定して埋め込んでいるモデルの発展形がいくつか提案されています。たとえば、以下の技術記事が紹介する〈ガウス埋め込み〉という手法は、単語の意味として確率分布を割り当てることで、単語の意味の多義性だったり重なりだったりを表現することができるとされています。

また、以下の技術記事が紹介している〈Poincare Embedding〉のように、意味空間を非ユークリッド空間に埋め込む手法もあり、これをやると単語の意味の階層構造を効率よく埋め込みに反映することができるとされています。

このようにことばの意味がそなえるゆらぎ(多義性や重なり)をどのように扱うかは意味空間モデルをより汎用的なものに改良するうえで大きな関心事のひとつといえます。

ところが、とりいそぎはっきりさせておくと、(ある哲学的立場に立つならば)ことばはべつにその語の意味なるものと密に結びついていたりするわけではありません。私たちにとって「ことばの意味を理解している」というのは、ある対象がそのことばの指示するところであるかを判別する能力が備わっているみたいなことで、意味という外延的な知識を実際に把握しているということではないのです。

むしろ、私たちの運用することばが、意味空間内に占めるある一定の領域と密に結合しているようなものではないという点において、理解が困難な詩的比喩の成立する余地が残されます。ふつう、理解が困難な生まれたての詩的比喩というのは、実際の言語の運用のされ方としては確率的にきわめてまれにしか観測されないような表現です。そのような運用のされ方はラベルの意味を意味空間に埋め込む過程において外れ値として処理されるため、word2vecのような意味を点として推定して埋め込むモデルでは上手く扱えません。これが、大滝のいう「非線形比喩」においては意味空間内のベクトル演算によって(正しい)一意的な意味を特定できないように思われる原因であり、基本的なアイデアとして、まだ生まれて間もない比喩については意味空間モデルだと正しく扱えないと思っておくべきです。

比喩としての像の理解

そもそもテクストから伝わるべき意味とはいったいなんなのでしょうか。考えてみれば当たり前のことなのですが、私たちはことばに意味をこめるといった表現を当然のように用いるけれども、当のテクストに「正しい意味」という具体的な実体が紐付いていたりするわけではありません。したがって、テクストの意味というのは受け手がその都度一方的に解釈するものでしかないのですが、それがしばしば一意で適切と思われる解釈に収束するしくみについては、分析美学などの分野から「作者」の意図の解釈の理論として提案されています。

たとえば、〈仮説的意図主義〉という立場では、作者の意図は以下のようにして帰属され、解釈されるといいます。

・作者の実際の意図ではなく、適格な読者がおこなう作者の意図の帰属によって、作品の意味が決まる。
・作品は、関連する言語的慣習と背景知識のもとで考えられなければならない。
・ある作品にかんする作者の意図についての仮説を作るとき、その作者の他の作品や、作品についての公的な発言を顧慮するのは適切である(それらの発言の中に作者の意図についての言明があったとしても、必ずしもそれが帰属される意図を決定するわけではない)。作者にかんする公的に利用可能な伝記的情報もまた顧慮してよい。

(参考:「作者の意図と作品の解釈 - 9bit」)

詩的な比喩・電波的な比喩

ところで、このように考えるとき、大滝のいう「非線形比喩」というのはその解釈として適切と考えられる一意的な像を結ばないという点で、素朴な意味での「詩的」な感覚をもたらす比喩とはいえません。上でさらっと触れましたが、内海が報告したように、理解容易な隠喩と理解容易でない隠喩とではそこから感じられる詩情とされるものの認知の仕方が本質的に異なる可能性があって、誤解を恐れずにいえば、私たちは前者の理解容易な比喩からもたらされる感覚こそを「詩的」と呼ぶためです。あえて違う表現を探すならば、適切な理解のしかたがよくわからない比喩から感じられる美しさのことを私たちは「電波的」などと形容するように思います。

「電波的」という言い方には、素朴な意味での「詩的」な表現よりもどこか劣るものとみなすような態度がともなうかもしれません。しかし、具体的にどのような表現が適切と思われる一意的な意味に収束して解釈されるかはおそらく読者によって個人差があるものです。

思うに、こういう表現は使い慣れた人にとっては当たり前な死んだ比喩なのでしょうが、それが目新しく映る人にとっては「詩的」なものかもしれないし、この手のソフトウェアにまったく馴染みのない人にとっては、適切な解釈のしかたがよくわからない「電波的」なものかもしれません。

大滝は「仮説の域を出ないが、この非線形性が「詩情」と呼ばれるものだとぼくはおもう」と述べているように、むしろ表現の「電波的」な美しさのほうを詩情として捉えているようですが、実際、素朴な意味での「詩的」な感覚も「電波的」な感覚も、どちらもざっくり詩情と呼ばれるものである点ではさほど差はないのではないかと思っています。



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