すみれちゃん

 ロビーのすみっこにある、背が高くてやせている観葉植物を、あたしは「すみれちゃん」と名づけていました。
 ロビーは広いから、たった一個の植物ぽっちでは、ロビーを通るみんなをいやすことなんてできません。
 存在意義があいまいになりがちな「すみれちゃん」でしたが、そんなとき、あたしは「すみれちゃん」に水をあげるのです。
 大きな葉っぱに水滴がきらきらすると、「すみれちゃん」は、リゾートホテルの間接照明にライトアップされたような、ちょっと妖艶なたたずまいになるのでした。
 水気をふくんだ「すみれちゃん」のいやし効果はちょっとパワーアップして、ロビーにあふれる疲れた会社員の1パーセントくらいの心がいやされたそうです。

 そんな「すみれちゃん」でしたが、最近、どんどん枯れはじめました。
 大きな黄緑色の葉っぱは片端から茶色くなり、茎はしょんぼりとしなだれ、見るも無残な有様です。
 「すみれちゃん」に早く元気になってほしくて、あたしはたくさん水をあげました。
 たくさん水をあげました。
 たくさんたくさん水をあげました。
 水のあげすぎが植物の根っこを腐らせると知ったのは、瀕死の「すみれちゃん」が撤去されることが決まったときです。
 後に、「すみれちゃん」が枯れたのは、不景気のせいだということがわかりました。
 不景気のあおりで残業がつづき、身も心も疲れ果てた会社員たちが、せめて心だけでもいやされようと「すみれちゃん」に水をあげすぎてしまったのです。
 でも、みんなは罪悪感を感じなかったようでした。
 次はどんな植物がくるのかな、と誰かがちょっと口にしたくらいでした。

 「すみれちゃん」が撤去される日、あたしはロビーに一人で立っていました。
 ふいに風が吹いて、目を閉じて開けると、目の前に人が立っていました。
 背が高くて、やせていて、頭はつるつるで、ボロをまとっている、男の人でした。
 でも、ほんのり色づいた頬は、まぎれもなく「すみれちゃん」なのでした。
「すみれちゃん」
 「すみれちゃん」は、首を傾げて、にっこり笑いました。きれいな瞳でした。
「すみれちゃん、男だったんだね」
 「すみれちゃん」は、軽く首を傾げて、困ったように微笑みました。
「ごめんね、間違えてて」
 「すみれちゃん」は、首を振りました。
「…ごめんね、すみれちゃん」
 「すみれちゃん」は、じっとあたしを見ました。
「ごめんね」
 「すみれちゃん」の瞳が、濡れて光りました。そうすると、ちょっと妖艶なたたずまいになるのでした。
 ふいにまた風が吹いて、目を閉じて開けると、もうロビーには誰も、何もいませんでした。
 あたしはちょっと泣きました。そしてロビーを出て、仕事に戻りました。

 1週間経って、新しい観葉植物がロビーにやってきました。
 ロビーは広いから、たった一個の植物ぽっちでは、ロビーを通るみんなをいやすことなんてできません。
 背が低くて太っている観葉植物を、あたしはちょっと迷って、「かおるちゃん」と名づけました。
 今度は、男でも女でも大丈夫なように。


written: 2009.8.11