ゴーヤチャンプルー

 ぽい、と目の前に投げ出されたゴミに、僕は読んでいた雑誌から顔を上げた。
 彼女は、剥き出しの脚をこちらに投げ出したぞんざいな格好で、今日買ってきたらしい漫画本を貪り読んでいる。横にはポップコーンが一袋。指の油を拭ったティッシュを丸めて、僕の横に置かれているゴミ箱に向けて放ったものらしい。入れる意思すら感じられない、見当違いの場所にぽとりと落ちたことにも気付かず、彼女は漫画から顔を上げない。
 僕は時計を見た。夜十時を回ろうとしている。夕食が早かったからか、僕は僅かに空腹を覚えていた。
「ねえ、」
 僕は雑誌を置いて、拾ったティッシュをゴミ箱に入れながら声をかけた。
「ねえってば」
 うんともすんとも言わない。集中しすぎて聞こえていないのではない。聞こえているけど返事が面倒なのだ。いつだったか、そう言ってつんとすました顔を僕は覚えている。
「なんか買いに行くけど。何食べたい」
 そう言うと、漸く彼女が顔を上げた。僕をちらっと見て、考えるそぶりを見せる。
「んーとね、メロン」
「ばかじゃないの」
 思わず返すと、彼女はふてくされた顔をした。
「メロンが食べたい」
「ばか言うんじゃない」
「メロンが食べたい」
 彼女は繰り返して、ますますふてくされた顔をしてみせる。だが、僕を見る目は楽しげな色をしていた。彼女は別にメロンなんかほしくない。ただ、この夜中にはなかなか手に入りにくい、しかも僕が嫌いなメロンを買いに行けと、駄々をこねるのが楽しいのだ。最初はまともに付き合って悩んだり怒ったりしていた僕も、今は慣れてきて、適当にかわす術を身に着けている。付き合い始めた頃の僕だったら、電車に乗ってでもメロンを買いに行ったかもしれないが、今はそんなことはしない。
「ばか言ってないで、何がいいの」
「じゃあね、コーラ」
 あっさりレベルが下がった。
「コーラがいい」
 だが、ここでハイハイと買いに行ってはいけないのだ。以前の教訓を生かして、僕は言葉を返す。
「コーラなんて飲んだら、太るでしょ」
 そう、彼女はコーラなど飲まない。夜中にポップコーンは食べるくせに、お茶か水しか飲まない彼女である。以前、僕がわざわざ買ってきたコーラを「太るんだから飲むわけないじゃん。なんでわかんないの」と突き返してきたのは、記憶に新しい。
「太らない」
「太るでしょ」
「太らない」
「太るでしょ」
「太ったら嫌い?」
 彼女がまたぷくっと膨れる。だがやっぱり、目は楽しそうにキラキラしている。
 僕は彼女の目の前にしゃがんで、頭にそっと手のひらを置いた。視線を合わせる。
「太っても好きだけど、太ったらおまえが良くないでしょ」
「うん」
 こっくり頷く。
「でも、もうポップコーン食べてるから太るよ」
「じゃあ、脂肪を燃焼しなきゃね。黒烏龍買ってくる」
 そう言った、途端に背中をどすんと叩かれた。
「すごいじゃん、気が利くじゃん、それがいい」
 彼女の歓声を背後に、容赦ないど突きを受けた背中の鈍痛をさすりながら、僕はアパートを出た。

 コンビニは、僕らのアパートから歩いて二分のところに、二軒ある。
 品揃えも接客も大差ない二軒だが、僕は一方を愛用していた。理由は簡単。かわいい店員がいるからだ。
 カワイさんというらしい。名札がひらがな表記のため、漢字はわからない。
 背が高くて、ほっそりとしていて、黒目がちで、化粧っ気のない肌がつるんとして、とてもかわいい。声は低めで、作ってなくて、それもかわいい。おでんを見ていると「お取りしますか?」と真っ先に声をかけてくれるところも、品物を丁寧に袋に入れてくれるところも、お釣りに両手を添えて優しく渡してくれるところも、全部かわいい。もういっそのこと「そんなにかわいいからカワイさんなんですか?」とか訊いてみたくなるが、そんなことをしたら二度とこのコンビニに来られなくなると思うのでそれは言わない。
 今日も、コンビニにカワイさんはいた。レジの内側のカウンターに鉄板を置いて、何やら熱心に焼いている。その上では、『フランクフルト 10円引き』というポップが踊っていた。カワイさんは、扉の開閉音にちらりと顔を上げて僕を見て、「いらっしゃいませー」と言って、また鉄板に戻った。僕はそれを横目に、店の奥の棚へ向かう。
 黒烏龍とカップ麺と水と、ちょっと迷ってからゴーヤチャンプルーを手に取った。レジにそれらをトサトサと置くと、焼き終えたフランクフルトを什器に補充していたカワイさんが「ありがとうございまーす」と言いながらやって来た。ピ、ピ、と電子音が響く。
「こちら、温めますか?」
「あ、お願いします」
「はーい」
 ゴーヤチャンプルーを手際よく電子レンジに入れ、ボタンを操作する指先は丁寧に整えられ、淡いピンクに塗られている。庫内の赤外線が点るのを確認して戻ってきたカワイさんに、僕は口を開いた。
「あの、」
「はい?」
 袋詰めをしながら、カワイさんが顔を上げる。僕は什器を指した。
「あの、さっき焼いてた、アレください」
「あ、はーい」
 カワイさんは手早く手を消毒し、袋を用意して什器を開ける。そして、最初から入っていた古い方ではなく、さっき焼いていた新しい方のフランクフルトを一本取って、袋に入れた。
「10円引きですもんね」
 そう言ってにっこり笑うカワイさんを直視せずに、僕は財布を開いた。
「ありがとうございましたー」
 扉を開けて、外に出る。本格的に到来した冬の気配を一身に受けて、首を竦めた。思わず、手元に提げた袋に触れる。ゴーヤチャンプルーとフランクフルトだけがホカホカと温かい。
 フランクフルトを開けて、ケチャップをつけた。コンビニの前でゆっくりと食べる。焼きたてのそれは、ぷちりぷちりと小気味のいい音を立てながら、僕の胃の中へ納まっていく。

 アパートの扉を開けると、話し声が聞こえた。
「……うん、じゃあ年明けたら帰りますね、うん、わかりました、ありがとう、うん……」
 敬語とタメ語の混じった微妙な言葉遣いに、親だな、と見当をつける。大学入学と同時に実家を出て以来、なかなか寄り付かない彼女に、年末年始の帰省を促す電話がかかってきたようだった。
 彼女は、僕をちらりと見てにこっと笑い、「うん、じゃあそっちも身体に気をつけて、うん、はい、それじゃあ」と早口に言うと、電話を切った。
「おかえり!」
「ただいまー」
 トトトッと駆け寄ってきて、袋を覗き込む。
「あ、ゴーヤチャンプルー! やった!」
「うん、好きだと思って」
「ね、おいしいもんねー」
 買ってきたものをダイニングのテーブルに広げ、食事の準備を始める彼女を横目に、僕はお湯を沸かすためシンクに立った。
「帰ってこいって?」
 じゃーっと勢いよく流れる水道水を鍋に受け止めながら、背後に訊ねる。
「何がー?」
「親」
「ああ…」
 彼女は少し黙って、「うーん」と答えた。
「帰るの?」
「うーん、一泊くらいかなー」
「そう」
「うん」
 あっという間に、くつくつとお湯が沸く。
 蓋をしたカップ麺を持ってテーブルに着くと、彼女は既に箸を握って、ちまちまとゴーヤチャンプルーを摘んでいた。
「どうするのー?」
 もくもくとゴーヤを食みながら訊ねてくる。
「僕?」
「うん」
「僕は帰るよ」
「どんくらい?」
「うーん、一泊くらいかなー」
 僕がそう言うと、彼女は「同じじゃん」といってけらけらと笑った。
「ねーねー、太った?」
 突然の話題転換に、僕はへっと顔を上げる。
「こんな夜中にゴーヤチャンプルー食べちゃったから、太ったかも」
 いやそんなにすぐには太らないだろ、というかそれ以前にポップコーン食べてたじゃん、とは言わずに、僕は「別に」とだけ言って首を傾げた。
「えー絶対太ったよ、だってさ、ここ摘んでみ」
 彼女が席を立って、僕に近づく。服の裾をぺろっとめくり、お腹を出す。
「ここ、ここ。肉がやっばい」
 僕は何故か、右手に箸を持ち、湯気を立てるカップ麺を目の前にして、左手で彼女のお腹を摘むことになった。
「普通だよ」
「いややばいよ」
「やばくはないよ」
「いややばいって」
「それより爪、切りなよ」
 僕の手を掴む彼女の手を見ながら、僕はそう言った。彼女はお腹をしまい、爪を見て、僕を見て、ゴーヤチャンプルーを見て、「食べてから切る」と言って席に戻った。
 僕はゴーヤと豚肉と卵をまとめて摘み、口に入れた。醤油とだしと、その他の甘さがわっと広がって、その合間にぷちぷちとした苦味が弾ける。
 一時期、二人してコンビニのゴーヤチャンプルーにハマり、毎日食べていたことがあった。こんなに好きなら自分たちで作ろうということになって、早速作ってみたゴーヤチャンプルーはしかし、苦いばかりでちっともおいしくなかった。ネットで調べると、ゴーヤは下ごしらえが重要で、念入りに塩で揉んで置いて水にさらして、漸くおいしく食べられるのだということを知った。それを念頭において万全の態勢で臨んだ二回目はしかし、味付けが足りなかった。そうして何度か試行錯誤して、やっとおいしいゴーヤチャンプルーが作れるようになった頃に、僕らはふっと別れたのだった。なんとなく、ずれていたのだ、歯車みたいなものが。まぁその半年後にはよりを戻したのだけれど。
 あれはいつのことだったか。
「おいしいねー」
 彼女が呟く声に、僕は顔を上げる。彼女はもきゅもきゅと口を動かして、にこにこしている。
「やっぱいいねー、ゴーヤチャンプルーは」
「また作るかぁ」
 僕が言うと、彼女は僕を見て、「だねー」と笑った。
 ゴーヤの苦味が、口の中でぱちっと弾けた。

written: 2009.12.17