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母への復讐心で自分の幸せを選ばない娘

私の人生、わりと後悔ばかりの連続で、今振り返ってみると、なんであのとき、そっちを選ばなかったんだー!ということが多々有り、我ながら残念な人生だなと思っています。

目の前にいいもの(ご縁や転職先、友人関係などなど)がやってくると、破壊衝動に囚われたり、残念な方がキラッキラに輝いて見えてそっちを積極的に選択したり、わざわざ不幸を選びにいっているとしか思えない私の人生。

残念な人生を生きているのは母への復讐心

幸せから自分を遠ざける選択をし続けるなんて、自分を不幸にする呪いとかかけられているんじゃないのかと本気で思っていたこともありますが、やはりどんな選択の背後にも自分にとってのメリットがあったようです。

その最大のメリットが母への復讐。

私は小さい頃から母親の期待に答えることができず、勉強も運動もできず、性格はぼんやりしており、取り立てて能力がないため、「あんたは何をやっても駄目だね」と言われ続けていました。

文字にするとライトな雰囲気ですが、日常的に行動や発言するたびに蔑まれ、「馬鹿者」として扱われ続けた環境は、子どもの私にとっては今思うと地獄でした。

私にこんな惨めな思いをさせやがってと、「母、絶対に許すまじ!」精神で、母の幸せに繋がることは無意識下においてご法度になっていたようです。母の幸せや望むことは、よい学校に進学し、よい会社に就職し、よい旦那を見つけ、老後は母の面倒をしっかりみるという古い価値観での理想の実現です。

現時点私はこの理想を全く叶えておらず、その点において母への復讐は成功しました。

私は「幸せ」を望んでいない?

幸せか不幸せか、何が良いか悪いかという判断は別として、現代社会に生きる上で、よい学校に進学したり、よい会社に就職することは、人生の可能性が広がり有利に働く場合が多いと私は感じています。

そのため、母が私に求めていた理想は、私にしても悪くない内容といえます。しかし、それを叶えてしまうと、母が喜び誇らしく感じている表情が思い浮かび、想像するだけでも苛立ちを感じます。

そのため意識の上では、「私はよい人生を生きたい」と思い行動しながら、よいものに近づきそうになると何故か途端に無気力になったり、混乱して適切な行動がとれなくなる原因に、母の喜ぶ顔を見たくないというものがあり、私が幸せに生きるよりも、大切なのは母の不幸と思っているようです。

しかし母が公言していた古い価値観での理想の実現は、本当に母の望みなのか、わからなくなるような母の言動もありました。また、私にとっての幸せは、この人生で物質的に有利に生きることなのかと思うとそれは違いました。

地位がしっかりして、経済的に裕福で、素敵な旦那さんもいるという一般的にいうところのいい人生は、母にとっても私にとっても、最も欲しいものではなかったようです。

寂しくなければ、不幸だっていい

おそらく母も私も、最も欲しいことは「寂しくないこと」だと思います。寂しくなければ不幸だってよく、怒りに満ちあふれているような生活であっても、とにかく寂しくないことを実現することが最重要だったのかもしれません。

母にとって私が愚鈍であることは大きなメリットがあったと思います。何をやっても駄目な娘は大きく羽ばたくような可能性はなく、母と私の心理的な距離も離れることはありません。このことが母にとって安心感をもたらし、寂しくない状態を作ります。

私にとっても、残念な人生を送ることは、幼少期から続くような母との関係を継続できるため、どんなに悔しい思いをしても、寂しさを感じずにすみます。

どんな人生も「幸せ」を実現している

私は母への復讐のために、私にとっての不幸を実現しているつもりでいました。しかし、一般的な幸せは私も母も求めておらず、安心感や寂しくないことを、一般的にいう不幸なことによって実現していました。

どんな形であれ、安心感や寂しくない状態を実現しているという点においては、私たち親子は「幸せ」を実現しているといえるかもしれません。


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