私って?人間て?何だろう?
私ほどの年齢になると、この先、女性は生きがいを求めだすそうだ。
そして、男性はスピに行く方が多いらしい。ちょっと面白い。
ここまで生きていると私って?人間て?何だろうという問いを持つときが
あるでしょう。
若い時の衝動や刹那な探求とはまた違い、
例えば何かにすがりたい時や無力な時、
もしくはもっと大きな自然に触れた時とか。
そんな時人は
・宗教や霊的な観念を見出したり
・現代科学での解釈しようとしたり
・芸術を拠所としたりする。
このような、3つの柱から答えを探しに行くそうです
しかし、その問いをもって答えを求めても、
少し触れる事で慰撫され、
確信に近づくことはできたとしても、
それは半分だけでしかないと。
なぜなら、何だろう?と問いながら、
それをすでに知って生きている人間としての
自分がすでにあるので、結局は半分だけ。
つまり、その残りの半分は、自分の中に、持ちこたえなければならい。
俗まみれの人間文化があって、きっとそういうもので
残りの半分は満たされるように出来ている。
生きていくための肉体的な欲求・・・食べる 寝る 子孫繁栄をする
そんな欲求ではなく、本来生きていくにはさほど必要とされない
文化やアートで、心を震わせスピリットが欲する内側を満たしたいという
ものがあるのではないでしょうか?
まずは外に答えを見つけるのをやめて、
逃げないで自分と向き合い、
足りないものを味わいつくす事が大切で、
心を動かされることから逃げず半端に生きず。
痛みと憎しみと向き合って、
喜びを喜びとして受け止めてみること。
宮沢賢治が書いた
農民芸術概論綱要の最終行に、
「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
とある。道を求めること自体が道であり、どこかにあるはずの道を
探し求めていたら、自分の足元にこそ、その道はあった。
あとはその道を一歩ずつ歩いていけばいい。
という賢治の哲学。
学びに出て、分からなくなっては戻って自分の中に問うこと。
そしてこの感覚を他のアーティストはどう表現しているのだろう?
どう生きているのだろう?と、また学びに行く。
人生はこの繰り返しで進む。
ただこんがらがったまま、
見聞きした事実を飲み込むだけでは、ラーニング脳であり、
自分がその問いに答えないと何の役にも立たない。
ビジネスに活かすうえでも、
誰に何を伝えるのかという答えを問いながら
道を求めていかなければならない。
外に答えはないという言い方をしますが、
実際には外から学んだものを
内側の素材でどうするかが必要なのですね。
自分がミクロコスモスで
宇宙はマクロコスモスとしてありますが、
宇宙は私の中にあり 私は宇宙の中にあるという理にも通じます。
自分を知りたかったら世界を見て
世界を知りたかったら自分の中を覗き見る事。
これが自分を満たす方法事なのでしょう。
バルトークのミクロコスモスの曲集を聞き、
今、私がもし何かを語っても、結局は自分フィルターで語ってしまう。
その自分を最も薄めるのが、人に伝えたりビジネスの本質でもあると思います。
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