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22作品目 歌手 ちあきなおみ

どうも、自家焙煎珈琲パイデイアの「淹れながら思い出したエンタメ」作品目です。

ずっとこの時を待っていた、といってもいいでしょう。これに関してはサザン以上に待っていたかも知れません。
そうです、待望のちあきなおみさんのサブスク解禁です。

私は中3の頃、「一人紅白歌合戦」というライブで桑田さんが歌っていたことで「喝采」という曲を知り、ちあきなおみさんを知りました。
あとにも先にも、日本で一番歌の上手い女性はちあきなおみさんだと思っています。そりゃ、お嬢こと美空ひばりさんだって、EGO-WRAPPINの中納良恵さんだって、藤圭子さんだって、めちゃくちゃ歌が上手いですが、私の中ではどうしたって、ちあきなおみさんが一番です。

しかし、こんなに歌が上手いとどう上手いのか、なんて誰も言葉にできません。もういいからいいのです。
そんなちあきなおみさんは歌唱力を、世間は「表現力の高さ」という言葉で片付けています。
その「表現力の高さ」って結局、なんのことでしょうか?

関係ないんですが、中高6年間吹奏楽部員として、吹奏楽コンクールに参加していました。
その際の審査員のジャッジペーパーには「技術」と「表現」の2項目で点数が付けられることになっていました。
「技術」はわかります。音程は合っているのか、リズムは正しいのか、など、これは誰の耳で聞いても確実です。
一方、「表現」はどうでしょう。これはもう最終的には審査員の好み、としか言いようがない。曖昧でなんとも納得しがたい項目でした。

私の中でいわく付きの「表現」という基準が、私が敬聴するちあきなおみにも適用されているのは、なんか悔しい。筆舌尽くしがたいちあきなおみさんの歌の上手さを頑張って言語化してみようという試みです。これははっきり言って果敢な挑戦だと思います。

そもそも1994年生まれの私は1992年に活動を休止されたちあきなおみさんをリアルタイムで知りません。あとから全部追っかけて知ることになります。
昭和生まれの方は、リアルタイムを知らない平成生まれの戯言だと思ってお読みください。

そんなことはいいから、珈琲を焙けよって話ではありますが。

さて、まず、一般に歌を歌うとき、我々、素人でも考えることはなんでしょう。
やっぱり音程と音量じゃないでしょうか。
歌が上手い人はカラオケで精密採点をすると、上に出てくる音程のバーにしっかりハマります。むしろ、音程がしっかり取れるというのは大前提と言っていいと思います。
次に、音量、この場合は歌の話をしているので、声量と言い換えます。曲調に合わせて、声を張ったり、ささやかに歌ったり、声量の変化をつけます。

つまり、我々は声量と音程の二つはすでに歌のうまさの評価軸としてすでに持っているわけです。
では、今まで言語化されてこなかった、ちあきなおみさんの「表現力」と言われる上手さはこの声量と音程とは違うところにあることになります。
一体どこにあるのでしょう。

そこで私はちあきなおみさんを聴き漁りました。
お馴染みの「喝采」「黄昏のビギン」「夜へ急ぐ人」「星空の小径」はもちろん、シングルのカップリングなどまでちあきなおみさんは歌うもの全てと言っていいくらい聴きました。

ちあきなおみさんの歌の上手さ、それを言語化するための他の評価基準、それは「声の密度」にあると結論に至りました。
声の密度、ハスキー具合に近いとも思うのですが、ハスキーというのは「声の質」ことで厳密には私がここで言いたい「密度」とは違います。
違いが分かりづらいのですが、もちろん、声量とも違います。
声楽に詳しくないので専門的なこと言えないのですが、おそらく息の量や空気の振動に関係があるんだと思います。

百聞は一見にしかず、と言いながら、お聞きくださいというのも可笑しな話ですが、まずはこちらをお聞きください。

1988年にリリースされた「イマージュ」という楽曲です。
作詞作曲がチャゲアスのあの飛鳥涼さんというのもツッコミたいところですが、今はそんな余裕がないので、一旦おいておきます。

この曲のサビの歌詞は以下の通りです。

描くものは イマージュ
終わりのない イマージュ

はぐれた愛を数えて

描くものは イマージュ
終わりのない イマージュ

どんなに叫んでも 空は壊れない

https://www.uta-net.com/song/78967/

「イマージュ」という単語の繰り返しがさらに2回繰り返されています。
この1回目の「イマージュ」と2回目の「イマージュ」、3回目の「イマージュ」と4回目の「イマージュ」、音程こそ少し降りていますが、声量は同じです。
しかし、1回目と2回目、3回目と4回目、の特に「マー」の部分、歌い方が明らかに違うのがわかります。
この違いを私は「密度」の違い、と考えたいのです。

同じf(フォルテ)でも、密度が違えば、全く違う音に聞こえるはずです。これこそが今まで「表現力」としか言われてこなかったちあきなおみさんの歌の上手さなのではないかと思うのです。

もう少し具体的な楽曲でちあきなおみさんの「密度」について聞いてみたいと思います。

こちらは1988年にリリースのシングル「役者」のカップリング「悲しみを拾って」です。
この曲のサビは3回「捨てないで」と繰り返します。やっぱりこの繰り返しも声量でなく「密度」で歌い分けているのが聞いて取れます。

そして、ラスサビの最後の「この命いらないから」では、「この命」と「いらないから」の間に少し溜めが入ります。
この溜めのタイミングでバンドはもう一つ盛り上がりを見せます。一方のちあきなおみさんのボーカルは声量は増していますが、盛り上がっている感じがしません。ここが声量と密度の違いです。声量は増しているのに、盛り上がってはいない、つまり、声量と反比例して密度が薄くなったからです。
もう一度、ラスト4分20秒辺りから聞いてください。
「この命」と「いらないから」を声量ではなく、密度で歌い分けているのが聞いて取れると思います。

このちあきなおみさんの密度こそが、中学生の頃から、ちあきなおみさんの歌が私を惹き付け続けた所以だと思うのです。
もちろん、これは、今まで言語化されずに「表現力」という一語で片付けられてきたちあきなおみさんの素晴らしさの一側面にすぎないはずです。
もっと他の要素で私たちが惹かれているところもあるはずです。
それは今後もっと聞き込んでいきたいです。(だから、豆を焙け)

最後に、冒頭で、ちあきなおみさんよりも歌の上手い人間は「あとにも先にも」と書きました。
これは本当にそうだと思っています。
つまり、もうこの密度を音楽に落としこめる歌い手は出てこないと思うのです。
今、歌が上手いと評価される人は、男女問わず、とにかく密度が濃い人ばかりです。
高音で声を張って、密度を濃く歌うことが上手いの基準になっています。
上手いの基準そのものが変わってきてしまっているのです。
小野小町も令和の世の中じゃもてはやされないのでしょう。同じことだと思うのです。

今、評価される歌の上手さとは違っている、しかし、ちあきなおみさんの歌は未だに評価され続けている。
それがちあきなおみさんのすごいところ、少し跳躍すると、音楽の素晴らしさを言葉にしようとした私の愚かしい野暮さ、と言えます。
素晴らしいを素晴らしいの言葉で終わらせられない、私のやかましいところなのです。
長文、駄文、大変失礼いたしました。

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