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「皆で仲良く」の素晴らしさと同じくらい、「集団」の恐ろしさを考えるべき

古代インドやバリのヒンドゥー社会では、「サティー」という風習があったらしい。
「サティー」とは、未亡人となった妻が夫の亡骸を火葬する際にその火の中に飛び込むというもの。
つまり焼身自殺である。

「貞淑な女性」であることを証明するため、また家族の罪を清める功徳として行われたそうだが、ヒンドゥー教典に根拠となる記述はない。

当然、大多数の未亡人はサティーなんてしたがらなかった。
いくら名誉が得られても、死んでしまったらどうにもならないよね。
当人も望まないし、ムスリムやキリスト社会からも野蛮な風習だと批判があって19世紀にサティー禁止法が制定された。

が、現在でもごく一部でこっそり行われているらしい。
なぜ??って、そこにメリットがあるから。


夫が死んだら財産は通常、妻の物となる。
で、妻が死んだら夫の親類のものになる。親類たちはこれが欲しい。

そしてサティーの際につける高価なアクセサリー。
これは儀式後にバラモンのものとなる。バラモンもこれが欲しい。

つまり、死ぬ本人以上に周囲がサティーを求めていたのだ。
だから未亡人は親族から強要されたり、火を前に怖気付いたところをバラモンに無理矢理押し戻されたり、薬物を使って行われたりした。
誰か一人が死ぬことによって、たくさんの人がハッピーになったわけだ。


ヒンドゥー社会のサティーに限らず、「誰かの犠牲によって大多数が救われる」という仕組みは古今東西、世界中のあらゆる場所で見られる。
救いは精神的なもの・宗教的なものもあれば、経済的なものもある。

例えば五穀豊穣を願って若い娘などの生贄が捧げられるとき、それで満足するのは神様なんかじゃない。儀式を行った村人たちの心だ。
戦争だって若者の死という犠牲を払って、軍事産業や国家という多くの人々が経済的に救われている。
これら集団で生きる社会の縮図として、学校という子供の集団では必ずイジメが起こる。

人は利益を同じくする物同士で群れて仲良しこよし/安心安全/繁栄を手に入れるために、必ず生贄、犠牲を必要とするらしい。

このこと、もっと子供たちにも教えてあげたいよね。
人は「自分を含む大多数の人のハッピーのためなら、少数派の人の命を奪うことを選ぶ生き物なんですよ」って。
「みんなで仲良く」という集団形成は、必ずそこに適応しない個をハブり、吊し上げ、そのことでより強い結束を得る。
これは生物的にそうなのだから、「イジメだめ、絶対」とか言ってもどうしようもない。

じゃあどうすれば解決するか?
集団生活をやめる、制限する、時間を減らす。
一人で考えたり感じたりする時間を増やす。
少なくとも、一人の時間を求めている人や子に「みんなで仲良く」を強要することだけはやめてほしい。
(そもそも学校や会社は拘束時間が無駄に長すぎる。ダルい)

「皆で仲良く」してほしい人たちは、人を一人にしておくと「ロクなことしない」「生産的なことできない」と疑ってるんだろうけど、そんなの人それぞれだ。
一人だと何もしない人もいれば、放置された方が面白い活動をする人もいる。
「ゆとり世代がダメ」って話も、既存の体育会系、上下関係や規範を重視する従来の日本型社会にとって都合が悪い、ってだけの話でしかないよね。
それに集団生活のストレスで誰かを攻撃したり自分が死んだりするより、一人で何もしない方がよほどマシだと思う。

「個の時代」というのは単に実力主義を推し進めるだけじゃなく、人間が群れることによって起こる「少数の人間の犠牲」を抑制するために必要なことだと思っている。
そして人との接触を強制的に制限されるコロナは、一人の時間を増やすための良いきっかけなので有効活用したい。
なかったことになんかすべきじゃない、と思っている。

必要な時に必要な人が、堂々とドロップアウトできる社会になりますように。
と、社会不適合な私は願っています。


追記:全く関係ないが、コーヒーとピンクペッパーを一緒に食べるとシャキ!っとして「やったろか」系の気持ちになる、ということに本日気づきましたので、ご報告します。
気が滅入った時にオススメです。


毎日寒いですね。体に気をつけて!