犬と猫と私
日記
友人に神社でダンスを踊るから、そこで古本の出店を出さない?と誘われた。読書会をしている人たちに声をかけたら快諾してもらえて、当日は自分の棚からお気に入りの本をたくさん取ってきて、並べた。思っていたよりもたくさんの人が足を止めてくれて、私の持ってきた本に興味を持ってくれたりしたら、私も嬉しくなって、たくさん本の説明をした。
お客さんに説明しながら、それらの本のどんなところが好きだったかを、同時に、もう一度理解したりした。赤瀬川原平の「四角形の歴史」と穂村弘の「野良猫を尊敬した日」を、どっちもかなり読みやすいんですと、説明をしながらぱらぱらと見せると、購入してもらえた(ありがたい)。
「こどもの哲学 大人の絵本」シリーズ「四角形の歴史」の、犬の話が載っている部分が気に入っている。文章は、「犬も風景をみるのだろうか?」という問いから始まる。そこから、「犬は景色を楽しむことはできない。景色を景色として楽しむことができるのは人間だけ。犬はエサや他の動物みたいに、ものをみることしかできない。」という話が続く。でも、「犬は無をみることができる。何もせずに、長い時間、じっと座って、無をみている。」のだという。
「満足そうな寝顔。」
その後に続く一番好きなページの文章である。
これだけが書かれた見開きの1ページに、犬が満足そうにしているイラストだけが描かれているのだ(紹介したいくつかの文章はうろ覚えで、大体しか合っていない。実物をぜひ読んでほしい)。
たしかに昔外で飼っていた犬のラッキーは、散歩とごはんの時間以外、座って、どこかをずっと見ているか、目をつぶって、(主観だが)満足そうに眠っていた。景色をきれいだなあと思うことが無いラッキーは、目の中に何かしらを写しながら、無を感じていたのだと思う。長い間。
私は人間なので景色をきれいと思ってしまう。今の時期なんかは歩いていて、アジサイがきれいだなあと思う。でも無をみて、満足そうにしている犬のことを知ってしまったら、羨ましくて仕方がなくなってしまった。私も無をみて、満足そうに眠りたい。でも1日中そんなことを目指してじっと座っていたら、きっとおかしくなってしまうのだろう。景色を認識できる人間には、もうできないことなのかもしれない。
でも何かしらの無ではない時間を過ごして、自分にとってすごく満足だ、と思うとき、私はいつもこの言葉が頭をよぎる。
満足そうな寝顔。
私は、そのとき恐らくラッキーと同じ顔をしているのだろう。
「野良猫を尊敬した日」には、表題作に気に入っている文章がある。手放してしまって、文字通りに思い出せないのが残念だが、大体「猫は一切のものを所有せずに、生を全うする」というような文だったと思う(この文はこのエッセイの話を展開するための引用だった可能性もある)。犬の次は猫である。野良猫は生まれてから、死ぬまで、その日に食べるものをその日に取って、食べて、それを続けて、続けて、どこかのタイミングで死ぬ。とてもシンプル。著者は野良猫の担保を持たずに、その一瞬一瞬を本気で生きる姿に憧れて、その対比として熱を出したりすると何もできなくなってしまう自分のことを書いていた。手持ちに何もないと、そのもの自体は一瞬一瞬に迫力を持つのかなと思う。さらにすべてを手放している姿は、本気を出す以外のときは気楽そうで、傍から見ると確かになんとも羨ましい。いつもは気楽なのに、特別なときだけ輝いているなんて。
私はものを捨てることが苦手。ものに執着があるタイプ。ものを捨てたら、そのものが持つすべての思い出がなくなってしまいそうで。小さい頃ものすごく大事にしていた猫のぬいぐるみがある。名前は「ニャンコ」という、全ての猫を背負ったとても分かりやすい名前で、ピンク色の、くたくたのぬいぐるみだ。このぬいぐるみは私によって死ぬほど大切にされ、ほかの人は気軽に触ることも許されなかった。ちなみに洗うなんて言語道断で、母が気を遣って、「ニャンコ」が洗剤のいい匂いになって返ってきたときは、この世の終わりかのように泣きじゃくり、もとの安心する匂いに戻るまで握りしめていたという。ちなみに、母に言われるまでもなく、あのときはこの世の終わりと思ったので、私もしっかり覚えている。
その「ニャンコ」は小さな子どもに大切にされていて、洗うのを許されていなかったという若干虐待状態だったので、父が衛生的に気になったのか、ある事件が起こる(今思ってもほかにやり方はなかったのか、でも私が聞き分けが悪すぎてのそれなのか、疑問に思うところだが…)。私は父と遊んでいるときに「ニャンコ」を隠され、見つからない見つからないと言われ、そのまま処分されるのである。あのときは見つからなくなってしまったということで終わっていて、真相は定かではないが、大人になった今、たぶんそうだったんだろうと思っている。そのときはかなり長い間落ち込んで、私は2番目にお気に入りだった「マロンちゃん」と新しく付与された「ピンクちゃん」という「ニャンコ」によく似た猫と寝ていたが、やっぱりその子たちはいつまで経っても「マロンちゃん」と「ピンクちゃん」で、「ニャンコ」ではなかった。今でも「猫のぬいぐるみ」というカテゴリーはなくて、知ってしまったら「ニャンコ」「マロンちゃん」「ピンクちゃん」であり、私のものへの執着心みたいなのがそういうところから伺える気がする。ちなみにほかの2匹のぬいぐるみもそれぞれ「その子たち」であるので、それはそれとして大事で、捨てられないのだ。数学の確率でいうと順列Pの場合のみしか考えていなくて、組合せCは私の中には無いのだ(分かりにくい)。
捨てたら忘れちゃって意外と思い出さないことって結構あるのだが、たまにどうしても忘れられないものもあるから、怖いのかもしれない。
でも、無くなってしまったものを寂しく思う感情を大切にしたり、戻ってこないことを受け入れてそれも含めて生きていくみたいな、そういう感情も最近はお勉強した。いつか私も、そうなれたらなあと思っている。でも、「ニャンコ」のことを今でも、想っている。捨てられてしまっても、「ニャンコ」との想い出は別に消えないことは分かった。ただ、「ニャンコ」に会えないことが寂しい。
持っているものを捨てる・捨てない、と、猫みたいにはじめから持とうとしない、はまた別次元の話なんだと思うけど。
私は著者と同じように猫の生きざまを羨ましい、と思ったあと、でも何も所有しないことはやっぱり人間の私にはできないから、捨てる・捨てないを選んで生きていくんだなと思った。記憶に残っているのは、それを再確認したからなのかもしれない。
本を売ったあとは、無を見て、何も所有しないで生きていく動物たちと、人間である私のことを考えたりしていた。
今日もたくさん眠る。例えば体調が悪かったときや悲しかったとき、寝ている間だけ意識がなくて苦しくないとしたら、ありがたいと思う。人間は寝ている間だけ、無になれる時間がある。それに安心する。割と前向きな気持ちで。起きている間はいろんなことを考えてしまうからこそ、無防備に眠って。犬は寝ていても無防備にはなれず、すぐ起きてしまうから、起きている間も無を持てるんだと思う。眠って無になって、安心していられるのが嬉しい。最近は、好きな人の横でたくさん眠ることができることが嬉しい。目を覚まして、不安に駆られるときも、大丈夫だよと言ってもらえるから、起きててもいいなと思う。いろんなこと、おもしろいなあで済ませられる私たちが好きだと思う。これからはもう少し起きていたい、と思う。意識のない無の中の、長すぎて少しはみ出た部分で夢をみたりする。いつもいい夢をみる。ただ好きな人と一緒にいる。起きても隣にいる。幸せだと思う。私が無になって眠っている間、どこかでひとりで過ごしていいから、私が起きる頃になったら、ずっとそこにいたみたいに、戻ってきて、一番最初に視界に入ってきてほしい。
犬や猫をどれだけ羨んでも、私は人間なんだなあと思う。犬や猫にはなれないんだったら、人間の中でやれることをやるんだなあと思う。
そして人間の中で、さらに、自分の中でやれることをやるのだなあ。
今日のうた
くるりの「ポケットの中」が絶対いい、と思ったけど、もう既に紹介してしまっていた。
最近聴いた歌で。
くるり-BIRTHDAY
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