子どもの精神的な安定とは

 子どもにとって精神を安定させるものは一体なんだろうか。そう考えたときに、一番最初に思い浮かぶのは身近な大人の存在である。ここで敢えて両親と言わないのは、存在として両親がいないということもあるが、実質的に両親よりも他の大人が安心感を与えている可能性もあるからである。
 
 ボウルビィの愛着理論がある。日本ではこの愛着理論は解釈を湾曲され、三歳児神話へと姿を変えてしまったのであるが、要するに2,3歳頃までに安定した大人の存在が必要であり、その大人というのが一番身近で出生元である母親がなるケースが非常に多いというのは、いつの時代にも変わらない事実である。しかし、現代社会の母親というのは非常に忙しい。というより、家庭という環境が今子育てに向いていない。

 なので、現状では保育園の保育士なども愛着対象になり得る。というより、保育園では保育園での愛着対象がいて、幼稚園には幼稚園の、習い事には習い事の…などの各所に愛着対象、依存対象を作るのが理想的である。

 そして、表題の精神的安定だが、これは悪い言い方に聞こえるかもしれないが子どもの話を鵜呑みにしてくれる大人の存在が必要なのではないかと考えている。というのも、子どもにも権利がある。その権利を尊重してくれる存在が必要である。権利を尊重する、というと実際にどのような行動に出ればいいのかわからないし、言いなりにならなければならないのかとか否定してはいけないとか、そんなことを考えてしまう。

 本来であれば、そこに子どものナラティブを理解したり子どもの発達段階を理解しなければいけないと思うのだが、それを現場の保育士に理解してもらおうと思ってもなかなか難しいところもあるし、なによりここも湾曲されたら修正のしようがない。なので、私は保育士さんなどに研修を行う際には「子どもの話を一旦鵜呑みにする」という取るべき行動を伝えるようにしている。

 子どもの言葉を鵜呑みにするということは、一旦受け止めるということである。鵜呑みにするだけでいい、それを絶対的に受け入れる必要はない。子どもも含め、人間はクレームをはじめとするような要望を伝えたとき、それが叶われることが最終的なゴールに設定している人はあまり多くない。そのクレームという形を通して自分のフラストレーションをぶつけていることが多い。そして、形として叶えられるよりも思いが通じるほうが納得する場合が多い。

 例えば、子どもが順番でおもちゃを使うことを拒み周りを困らせている(様な状態になっている)時、周りの子どもの困りを無視してその子におもちゃを独占させることが物事を解決する方策ではない。
保「そのおもちゃ、一人で使いたいの?」
子「うん、絶対他の子には貸したくない!」
保「そっかそっか、そんなに好きなんだ」
子「うん、大好き」
保「どんなところが好きなのか先生に教えてよ」
子「うん、いいよ。ここがね、こうでね、そしたらこうなってね…」
保「なるほど!これはすごい楽しい。ちょっと私もやってみていい?」
子「うん、いいよ」
保「これは楽しいね、使わせてくれてありがとう」
保「今のとっても面白かったよ、これは君が一人で遊びたくなる気持ちもわかるな」
子「そうでしょ、だから一人で使いたいの」

ここまで会話を展開させた時には、子どももすっかり落ち着いていて「自分のやりたいことを邪魔される」という興奮は収まっていると思われる。その後に、その楽しさをみんなで共有しない?とか時間を設定して、今日はその時間までゆっくり楽しんで、そしたら他の子にも楽しませてあげてね、楽しいところを私に教えてくれたように周りの子にも教えてあげてね、とかそんなことを伝えられたら大体のことについては解決される。もし解決されなければ、もっと深い理由(それこそ愛着不足によって物への執着が強すぎるなど)があるはずなので、アプローチを変えるだけである。

 現場の保育士的に言えば、この様なことで協調性が育つのか、とかその場しのぎではないのかとかあるかもしれない。だが、ここで理解者がいるということが、自分自身が社会的に認められる行動を移す事ができる土台になっていくのである。

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