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承認欲求のためだけに文章を書いていた。

私は昔から文章を書くことが好きでした。その理由は様々です。読書が昔から好きだった私は、とある小説サイトで書いた創作がとあるジャンルで一位をとったり。読書感想文を書くと、先生が良い例としてみんなの前で読み上げてくれたり。文字で感情や情景を表現すること、自己の再発見ももちろんその理由の一つですが、現実的な理由として、成功体験が多いからというのが実情な気がしています。

文章を書けば、周りの大人が評価してくれる。もちろん、筆がすらすらと進むあの瞬間や、文章を書きあげた時のなんとも言えぬ達成感も私は大好きです。だがしかし、その先には読んでくれた大人の評価というものが私はセットでした。

昔から、こんな風に文章を書くことが好きだし、得意ではあったのですがなぜ自分が文章を書くことに秀でているのかはさっぱり分かりません。(もしかしたら、周りの大人がおだててくれていただけかもしれませんね。)

私は、いつだってポテンシャルに甘えていて、”苦しい文章”を書く努力を怠っていたような気がします。


少し話は変わりますが、私の通う高校では、小論文が入試科目に含まれている大学の対策なども兼ねて、文章を書く訓練が出来るような選択科目があります。この半年、初めてその選択科目を取り、毎週のように政治問題や国際問題について論じた文章を私なりに一生懸命書いてきました。先生は私の文章を今までの大人たちのように褒めてくれましたし、褒められることで私は俄然やる気を出し、エビデンスを調べまくって自分の考えをまとめるという工程を繰り返しました。

ですが、最近になって私のやる気はこの半年が嘘みたいにとんと消え去ってしまいました。この選択科目を受講している生徒はまだまだ他にいるわけで、私以外にも素晴らしい文章、素晴らしいアイデアを生み出せる生徒は多くいるのです。先生はきっと素晴らしいと評価できるものに評価しているだけですが、いつしか私の文章や発表へのフィードバックは薄くなってきていました。

毎週の宿題を一生懸命こなしても、前のように先生は私のもとへやってきてすごい!すごい!と褒めてくれない。そんな現実に私は、文章を書こうという気力はすっかり失せてしまいました。

しかし、これは先生のせいではないです。腐っていた私でもわかりますが、私が自分の実力に甘えて、過去の自分を超えるような文章を書こうという努力をしていないからです。きっと先生は私のポテンシャルを見抜いて褒めてくれていたのかもしれません。ですが、あまりにグズグズと成長しない私に呆れたのか、試練を与えてやろうという気になってくださったのか、理由はともあれ評価することをやめてしまったのだと思います。


私は、弱い人間です。周りの評価がずっとない状態ではどうにもモチベーションを保つことが出来ないのです。文章を書くことは時に苦しさを伴う作業です。それを分かっていたつもりでしたが、様々な文章を書いてきた人生の中で今が一番苦しいと感じています。思えば,最近の私の授業態度すらも、あまり評価されるものではなかったように思います。

私は、文章を書く意義をもし問われたらこう答えるつもりでした。「文章を書くことで自分自身に向き合い、自分の内に秘めている自分も知らない考えやアイデアを引き出すことができるから。」と。

そんな高尚ぶった考えをしていた私ですが、今初めて自分でもしらなかった自分に出会っていると感じています。私の書くことへのモチベーション、高すぎるプライド。今更気づいたことはとても恥ずかしいですが、これは私にとって忘れてはならない体験なのかもしれない、とも思えます。

自分が自分のために文章を書くことで、他人に読んでもらえるモノが書けるようになりたいと、これを書く今の私は考えています。



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