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ろくでなしと選択的変化

おれが自分を「ろくでなし」って思うのは、根幹的な部分で社会や世界を1ミリすらよくできていないと感じるとき。
でも、そんなおれも、「自分の力や意識を少しでもなにかよくする方へと向けられている」という実感があるときは、存在していないよりマシだぜと思える。
…いや、違うな。もっと能天気に「ああ、おれはいいことをしている。社会的に意味あることをしている」と満足して、「おれだって捨てたもんじゃないさ。まあまあいい感じじゃないか」と悦に入っているのだ。気楽なもんだ。でもそれでいいよね〜。

だけど、それが実感できないときがある。理由は…まあいろんなケースがあるかな。
そしてそんな時期が長く続くと、おれの存在が社会や世界に与えるマイナスの影響の方が、強く重くおれにのしかかってくる。
だから普段から、せっせと社会的に意味あることを省労力でできる機会を探して、実行している。そして実行している自分を味わっている。まあまあいい感じじゃないかって。

…簡単だなぁおれって。…まあ、知ってたけどさ。

知ってたけど、去年のエディンバラ暮らしの中で自己観察して、これまで以上に明確になったことの一つがこれなのだ。
そして追加でより明確になったのが「社会や世界に貢献できていないと、他の代替先への心理的依存が進む」ということ。

  • 社会の役に立てないのなら、せめて身近なだれかなにかの役に立ちたい。

  • 親しい人たちの期待に応えて感謝されたい。

  • 敬愛している人や恩義を感じている大事な人に、そして所属コミュニティーや所属企業に「存在意義」を感じてほしい。

これ自体がひどく悪いことではないと思うけど、でも単なる依存と承認欲求でしかないし、少々厄介で危険も伴う。
認めてもらいたい気持ちが強くなり過ぎると、視野が狭くなったり近視眼的になったりして、社会や世界に何ひとつ役に立たないことをやりかねない。それだけならまだしも、むしろ悪い影響を与えることすら…。
ここからおれが学ぶべきは、頭ではわかっているつもりの「他者評価に依存しないこと」をもっと身につけるべきだということ。
そして、もっとゆるく甘く自分に接することだ。
人にやさしくいたいなら、自分にもやさしくなくちゃね。

それからもう一つしっかりと考えていきたいことがある。
23年ぶりの海外暮らしと自分の弱さ』で書いたことだけど、ある状況の中で気持ちが弱くなると、「このあともそれができないんじゃないだろうか」「そもそも自分には何ができるのだろう」という思考に進んでしまいがちなことだ。そのときその状況においてできていないだけなのに。

これは、おれだけの問題じゃないと思う。程度の差こそあれ、多くの人が同じような感覚を味わったことがあるんじゃないか? それを「人はたいてい誰しもそんなもんだ」ってちゃんと理解できていないんじゃないだろうか?

どうやら「危機療法」というものが心理療法にはあって、ポイントとなるのが「選択的変化」らしい。現在自分の能力と価値観を公正に評価し、変えなくてもよい部分と、機能不全で変えなくてはならない部分とをちゃんと見極める。
弱っているときは、本当はなにも問題が起きていないのに、なにもかもがうまくいっていないと感じてしまう。自分のすべてに足りなさを感じてしまうらしい。
これを逆に取れば、「なにもかもがうまくいっていない」「自分には足りないものが多すぎる」と感じているときは、単に弱っている可能性が高いということだ。
ではどうするか。…「選択的変化」のやり方、近いうちに調べてみよう。

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ところで、この文章を読んで「社会にいいことをするアプローチなんて、どこにいようと身の回りにいくらでもあるじゃないか!」と思う人も少なからずいるんじゃないかと思う。
でも、なかなかそうはいかないのだ…。最初の方に「省労力で意味を感じられる機会を求める」と書いたように、おれは省労力を求めてしまうのだ。そのあたりが「(根っこが)ろくでなし」という自分に対する評価につながっていくのだが…。
いかんいかん。そこばかりをじぃっと見つめると、自分に厳しくなっちゃうね。
今年はもっと、自分を喜ばせる方法をいろいろと見つけよ〜っと。

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