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「海外で暮らす」の意味(その1) | エディンバラで暮らす旅

今回のエディンバラとヨーロッパの旅の一番の目的は「暮らすように過ごすこと」。もう20年以上経ってしまったけれど、昔、バンクーバーやクライストチャーチで過ごしていたときのような生活をしながら、「自分がこれからの暮らしになにを本当に求めているのか」を、頭でっかちにならずに、なにを感じるのかを大切にしながら整理してみようということだった。
ずっとずっと漠然と、「生活の中心をいつか海外拠点に移したい」という思いを抱え続けてきたけれど、願望的にそう考えるだけではなく、「おれは今も本気でそう思っているのか。それにはどれくらいの現実性があるのか」を、具体的に見極めたいと思っていた。

10月上旬からスタートしたこの「エディンバラで暮らす旅」も、スタートから50日近くが過ぎた。
今週頭には9日間のデンマーク旅行も終わり、数日がかりの「旅中の旅」もこのあとはない。そしてエディンバラで一緒に暮らしている姪っ子夫妻も、先日、日本へと旅立った。
これからしばらくは、今回の旅のもう1つの重大ミッション「2匹の猫のお世話係」として、毎日猫sのごはんやトイレの世話をしながらの暮らしとなる。
これからしばらくはいっそう「日常の過ごし方」に意識が向かっていくタイミングだ。

ここまでの「エディンバラで暮らす旅」50日弱を通じて感じた、自分の問いに対する現時点の答えを書いておこう。

 「海外で暮らす」ことの意味

最後に長期海外暮らしをしたのは2000年のバンクーバー。あのときのおれは「またチャンスがあれば海外で生活をしたい。形はどんなものでも構わない」とパートナーと一緒に考えていた。
それから23年。
いまのおれたちは「どんな形でもいいから」とは思えなくなっている。あの頃のように極端な切り詰め生活をまたしたいとは思わないし、幸運や誰かの好意にすがることを「計画」と呼ぶような未来プランではもう暮らせなくなったと感じている。

お金から自由になれないのは悔しいけれど、結局、おれたちが思い描く「いい感じ」で暮らすには、やっぱりお金が必要だ。
パートナーにもある程度の安心感を抱かせる、あるいは「まあどうにかなるだろう」と楽観的になってもらえる状態を、海外で作り出せるか。
…残念ながら無理だ。ここまでの50日弱で、今のおれが収支をどうにかできるとはまったく思えずにいる。海外でそれなりに稼げるとも、稼げるようになる目処なり公算なりを高められる気がまるでしない。

2000年ごろの日本円の力。

日本に帰国する頃、おれは「海外で暮らしながら日本円を稼ぐ方法」を考えていた。
寿司職人になる、日本庭園の庭師になる、畳職人になる…。こうした海外においてはスーパーレアな特殊スキルを身につけて海外生活にチャレンジするという方法もないわけではなかったけれど、そうしたスキルを身につけるのに必要な時間と忍耐力を考えたら、自分がそれをできるとはまったく思えなかった(そもそも、当時のおれにはどれも興味が持てる仕事じゃなかったし)。

一方で、今と同様に、「平均的な収入を稼げる仕事」を現地で手にできるとも思えなかった。さらに言えば、「生活できるならどんな仕事でも構わない」とも思えずにいた。
そうなると、残る道はただ1つ。「円で稼いで現地通貨に両替して生活する」——おれたちがクライストチャーチで暮らしていた96〜7年と、バンクーバーで暮らしていた99〜2000年は、すでにバブルは弾けた後だったけれど、それでも円と日本経済はまだまだ十分強く、円で平均レベルの収入を得ることができれば、海外では平均の1.5倍程度の収入となる計算だった。

2000年に日本に帰った頃のおれは、勉強して特許翻訳家になって、ある程度の量のクライアント(お得意様)を手にしてからカナダやニュージーランドに引っ越しをして、日本円で稼いで現地暮らしをしようと思っていた。
でも、実際に勉強したり少し翻訳の仕事をしたりしながらいろんなバイトをしているうちに、おれは36歳で生まれて初めて会社員になり、平均以上の収入も得ることができるようになっていた。
そしてじょじょに、「海外に拠点を移して生活する」は、自分の中でまったく当てのない、口先だけの言葉のようになっていった…。


これ、思ったよりも長い文章になりそう。
ここからはもう少しクリスプに、絞って書こうと思います。

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