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あなたにとって人権とはなんですか?

かなり前だけど、ある人に「あなたにとって人権とはなんですか?」と問われたことがあった。
その後、その人は「私にとって人権は幸せを追求する権利のことです。あなたと同じでしょうか?」と言った。

正直、そのときはなんだかしっくりきていなかった。

「幸せを追求する権利…。たしかにそれも人権の一つの定義ではあるだろうけれど、それが一番に来るのは違う気がする。」そんな想いが強かった。
人権は、虐げられている人たちを守ることがその第一の役割ではないのか。「幸せを追う権利」が最初に出てくるのは、持たざる者のことを意識していない、配慮のない無神経な「持てる者」の言葉のような気がした。

そして最近、自分の中で再び「人権とはなにか?」という問いに巡りあった。そのとき、自分の中から出てきたのは「幸せを追求する権利」だった——。

なんか真似したくさせるDundee(スコットランド第3の都市)のバス停のラクガキ。

あのときと今の違いはなんだろう。どうしてあのときは違和感を強く感じたんだろう。
改めて考えてみると、おれは、人権を、常に自分の身の回りにあるもの、誰もが日常のあちこちで触れているものとして捉えられていなかったんだと思う。「頭の中で完結させていた」というか。
人がそこにいる限り、常にそこには人権がある。金持ちにも奴隷にも、大人にも子どもにも、健常者にも障害者にも、聖人にもクソ野郎にも。誰にもだ。
それを虐げられている人や弱者こそが持つべきものとして考えることこそが、むしろ「持てる者」の考え方だったんじゃないのか。
自分を「持っている者」として捉え、「人権とは、持っている者が持っていない者に積極的に配り与えるもの」だという意識がおれの中にあったんじゃないだろうか。
…配慮のなさ。無神経さ。

今は、人権を特別な言葉にしてはいけない気がしている。
きれいごとや建前にならないように。人権を、本当に普遍的で、潤沢で、ありふれたものにするために。

あらゆる場所や状況で、文字どおり誰もが要求できて手に入れられる権利であるように。「誰もが持っているもの」なのだから、それが侵害されているときにすぐに「おかしいじゃない」と気づけるように。そのために、日常的に誰もが当たり前にそれを手にできているように。

少なくともそうであるべきだという考えが当たり前のものとなるように。

トップ画像とこちらは昨日行ってきたスコットランド国立近代美術館での展示作品


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