ルート19①美容室
広輔は床に散らばった髪の毛を見つめ、自分みたいなだな…、と呟く。
切り落とされた髪の毛は捨てられる。必要とされていない。邪魔者扱い……。
ほうきで髪の毛を集め、ちりとりへと流し込む。これで最後だと。
カラーン……。
ちりとりに髪の毛を入れ終わるとカウベルが鳴った。同時に冷たい風が店内に吹き込む。広輔はドアへと目をやる。そこにはひとりの女性が立っていた。
「あの…予約していないんですけど、いいですか?」
閉店時間ぎりぎりにきた女性は、ずぶ濡れだった。広輔をはじめ、店内にいる数人のスタッフがお互いに目をやる。
「…ああ、大丈夫ですよ」
広輔の先輩が答える。こちらへどうぞ、と席へ誘導する。
「おまえがやれよ」
広輔の耳元で先輩が囁く。
「えっ?」
広輔は先輩の目を見る。先輩は少し前からずっと時計を気にしていた。きっと定時にあがりたいのだろう。今から対応していたら残業確定だから。
「……はい」
先輩以外の連中からも降り注ぐ痛い視線に気づかないふりをして、広輔は返事をした。
「じゃあ、どういう感じにします?」
彼女のうしろに立って尋ねる。今日は朝から雨が降っていて、傘を持たないという選択肢はないはずなのに、女性は全身ずぶ濡れだった。ちょっとそこからそこへと、多少濡れても構わないというレベルではない。それでも広輔はそのことを切り出すことができない。なにやら訳あり。それだけはわかった。
「……好きにしてください」
彼女はつぶやく。
「えっ?」
広輔は聞き取れたが、意外な答えに驚いて、もう一度訊く。
「好きにしてください。美容師さんが良いと思えるスタイルに」
彼女は少し語気を強める。
「好きにって言われても……」
広輔は彼女の濡れた髪の毛に手を通す。冷たい。それでも腰まである黒髪は、とてもきれいだった。
「カットもカラーもパーマも。なんでも大丈夫なんで」
彼女の声が切羽詰まったように聞こえる。訳あり。広輔はその言葉が頭をよぎり、覚悟を決める。
「わかりました」
広輔は手を動かしていく。いつもはある程度会話をしながら進めていくが、彼女には一言も話しかけない。彼女はずっと目を閉じて前を向いていた。
さっきの人が最後の客になるはずだった。彼女が来るまでは。
広輔は今日で美容師を辞めるつもりでいる。ジャケットの内ポケットには辞表を入れてある。
辞表を書いたのは、昨晩だった。
「おまえ、ダメだな!」
「センスねえよ」
「やめたほうがいいな」
店が終わったあと練習していると、酒の匂いを漂わせて、いつも先輩に言われた。
「さっきの客、もう来ねえな。全然納得してなかっただろ?」
客が帰ったあともダメ出しをされる。
広輔は気にしないようにしていたが、それが続くと、自分はダメなんだと思うようになった。先輩のためにやっているわけではないのに、先輩の評価ばかりが気になっている。そう気づいたのが、昨日だった。
「やっぱり向いてねえよ」
いつもは語気を荒げながら言う先輩が、昨日のカット練習を見て、しみじみ言った。酒の匂いもしない。昨日は広輔が先輩に直接頼んで見てもらっていた。嫌そうな顔をした先輩に、しらふの状態で自分の腕を見てもらいたかった。これでダメなら辞めよう。そう決めて。
「これが良いって思えることは、凄いけどな」
先輩はそう言葉を残すと、店を出た。広輔はしばらく同じ場所に立ち続け、最後に笑った。
「やっぱり…」
店を片付け、そのまま辞表を書いた。
広輔は彼女のオーダーを忠実に守ることにした。
好きにしてください。
広輔は彼女の長くてきれいな黒髪を躊躇なく切り落とす。自分が良いと思うスタイル。昨日先輩にダメ出しされた練習のときと同じスタイルに。彼女に文句を言われる筋合いはない。納得していない顔で帰っても構わない。これが最後だから。
「……できました」
広輔は目を閉じたままの彼女の耳元で言う。彼女はゆっくりと目を開けた。
「………」
彼女はなにも言わない。ただ目の前にいる、鏡に映る彼女とずっと目を合わせている。
「……すごい。わたしじゃないみたい…」
彼女は声をあげる。
「えっ?」
広輔は鏡越しに彼女と目が合う。
「すごいです!美容師さん。さっきまでのわたしと全然違う!すごい!素敵!ありがとうございます。本当にありがとう!」
彼女は立ち上がり、広輔に頭を下げ、広輔の手を握った。
広輔は戸惑い、大きく手を上下に振る彼女に身を委ねることしかできない。
「これでわたしの人生変わります!本当にありがとう!」
彼女は支払いを終え、店を出るまで、ずっと広輔にお礼を言い続けた。ドアを開けっぱなしでお礼を言うもんだから、散らばった髪の毛が風に乗っていくつか店の外に出ていった。
広輔は鏡に映る自分を見つめ、笑ってみる。
内ポケットに入れた辞表を取り出し、びりびりに破って放り投げる。
散らばった髪の毛と辞表をほうきでかき集め、ゴミ箱へと捨てた。
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