Always 1970年代・ぼくたちの家族・走れ北野病院へ①


(写真は改築後現在の北野病院:株式会社鴻池組のサイトより)http://www.konoike.co.jp/sekou_k/sk-kitano.html

 ぼくの両親は名古屋出身、若くして大阪商人を志し来阪しました。子供のときから事あるごとに、普段は始末して同業だった嘉門さんを見習いなさいと聞かされて大きくなりました。

「済生会中津病院」は、大阪紡織物株式会社などを創業した嘉門長蔵・コト夫妻が、私財100万円を財団に寄贈して中津病院を建設しました。
http://www.rikuryo.or.jp/home/column/wakita/04.html

「北野病院」も同様、NHKの「クローズアップ現代」でおなじみの才媛、国谷裕子(くにや ひろこ)さんの祖父、大阪錦糸界の雄将、田附政次郎氏が、「最高の医療を大阪の地に」と多額の 私財を託されて設立されました。

*国谷裕子(くにや ひろこ)大阪府出身・米国・ブラウン大学卒業(専攻:国際関係および国際経済)     
http://www.nhk.or.jp/gendai/caster.html

 夜7時半の「顔」といってもいい。政治から国際問題、教育から携帯電話まで、あらゆるテーマを26分で噛み砕き、問題点を洗い出す。(アエラ:後藤記者による)
 その国谷裕子さんも1957年、父・田附正夫氏、母房子さんの次女として北野病院で生まれている。

 長女は関西の老舗酒造メーカーに嫁ぎ、三女はカリフォルニア在住で不妊治療の専門医だそうです。
 国谷さん自身は1981年、NHK 英語放送のアナウンサーとなり、1985年には弁護士と結婚、夫は法律事務所に所属し、東京と大阪を行き来しつつ、弁護士活動を行っているそうです。

 確かな時期は思い出せないが、1970年代の初めでした。母は1903年生まれですから、70歳少し前だった思います。12人の子供はすべて成人し、それまで出産以外で入院などしたことはなかったと思います。

 ある日勤務先に突然電話があり、ぼくの血液型を確認したあと、その母が緊急入院してすぐに輸血が必要なので至急北野病院へ来るようにとの連絡がありました。電話の主は思い出せませんが多分兄弟の誰かでしょう。

 当時の勤務先は、いまのJRの明石のいくつか西の駅、現在でも10時ー15時は1時間に4本、明石から快速というダイヤですが、当時はのその時間帯は1時間に二本しか電車がありませんでした。いくら焦っても勤務先から、指示のあった扇町の北野病院まではたっぷり2時間以上はかかったと思います。

 いまなら、緊急の場合は携帯電話で移動中でも差し迫った状況が分かるのでしょうが当時はそれも不可能でした。それだけに、不安はどんどん広がりました。心の中で叫びたくなるような、初めて経験するとても嫌な気分でした。

 1955年、高校2年のときに、父を脳溢血で亡くしましたが、6月の暑い日の夕食前、父と二人だけ向かい合わせに食卓に坐り、父はいつものように夏でも熱燗とたぶん鯛の刺し身で晩酌をしていました。散歩がてらに、天神橋筋の商店街でなにか買い物をしてきたらしくとても機嫌が良かったことを覚えています。

 しばらくして、突然気分が悪いと立ち上がり何歩か歩いて座敷で倒れ、そのまま4日くらい昏睡状態で亡くなったので驚いたり不安に感じる時間も無いくらいでした。大阪一の名医と言われた先生にも往診しもらったりもしましたが、施す術は無いとのことで覚悟はできていました。死後はそれなりに大変でしたが・・・。

 1962年、12人兄弟のうち現在のところ、ただ一人海上自衛隊の対潜哨戒機墜落事故で亡くなった兄の場合はとてもショッキングで、不安に思う瞬間もありませんでした。
 その年の9月3日、その日は寄り道もせず、まだ明るいうちに帰宅していました。当時は会社のある肥後橋から天神橋筋6丁目の自宅との間は市電で通勤していました。

 帰宅するとすぐ、たまたまニュースの時間だったのでテレビのスイッチを入れました。いまのテレビと違い映像がはっきり現れるまでかなり時間がかかりましたが、しばらくしていきなり兄の顔写真と名前が映り、次々と何人もの映像が現われました。
 しかし、とっさにはなにが起きたのか全く理解出来ませんでした。

 台所の母に告げると、もし兄なら電話か電報で連絡があるはずだと言いながらテレビの前に来ましたた。 すぐに電話が鳴ったのですが、それはぼくが3歳から12歳まで過ごした岐阜、長野県境の町のHさんからでした。

 すぐに謎は解け愕然としました。その町は旧中山道の宿場、落合の宿(島崎藤村の故郷馬籠の手前の宿場)で、ぼくたち大家族は脇本陣を借りて住んでいましたが大阪へ戻ってくる時、家財の多くと電話も、懇意にしていた筋向かいのHさんの好意で預けてきたのでした。

 Hさん宅は、脇本陣の真向いの立派な本陣の井口家から1軒おいて隣、街道筋は大きな家ばかりで、それぞれ屋号がありHさんのところは「大和屋」で、男の子が4人と美人の長女がいて、ぼくたち兄弟の一番親しい遊び仲間でもありました。

 一家が大阪から移住したときに、本籍地をこの町に移したままで、毎年の学校の書類なども、なんの違和感もなく、[岐阜県恵那郡落合村(のちに合併して中津川市)886番地]と書いていたのでいまでも番地はよく覚えています。本籍とはむやみに移動しない、そういうものだと認識していました。

 電話は、大都市はともかく、未だ郡部では[待時通話]とか[即時通話]とかの区分があって、酷ければ[待時]では申し込んでから数時間後、[即時]でも数十分待たなければ繋がりませんでした。
 隊からか、新聞社からかは忘れましたが、Hさん宅に事故のことを電話で連絡してきたそうで、Hさんは折り返しこちらに電話をしてくれたのですが当時の通信事情のため相当なタイムラグがあったのです。

 事故現場も、当時は空港も無い離島ですからニュースも断片的だったでしょうし、兄は28歳、新婚半年目でしたから鹿屋基地の近くの自宅には当然テレビのニュースより早く連絡はあったと思います。
 基地周辺に住む家族は多分基地に集まったのではないでしょうか、実家への電話どころではなかったのでしょう。それでもその日のうちに死亡は確認され、その夜は一睡も出来ませんでした。
 翌朝の朝刊の一面に載った炎上する写真や記事を見て、その後の予定も分からないまま出勤しました。

 そんなわけで、父も兄も余りにも突然でしたが、北野病院へ緊急入院した母はかなり深刻な状況と分かっているだけに、気が気ではありません。まして、ぼくの血液を待っているわけで、とても焦りました。
 母の血液型はAB型で、12人の子供のうちAB型はぼくと姉の二人だけ、あと、母の妹の一人がAB型でした。

 母の病状は、十二指腸かいようの大量出血のため重度の貧血状態で、こんな場合の手術などには保存血液は使わず、採血直後の新鮮な血液を輸血するとあとで聞きました。
 
 たぶん、西明石までは各駅停車、以後は快速電車で大阪駅に着くと、東口から地下へ降りず、阪急百貨店のコンコースを早足で通り抜け、二つの信号でいらいらしながら阪急東通りへ向いました。
 阪急東通り商店街を少し行くと、やや人通りがまばらになったので、意を決して走り出しました。
 幸い服装はセーターにブレザー、柔らかいウレタン底の靴でしたので、あまり奇異な感じはしなかったと思います。

 ブレザーは、大阪在住時代、中学生のころから洋服は高麗橋の三越の前を少し入った池田洋服店ですべて作ってもらっていましたが、おそらくその店で作った最後の洋服でしょう。財界の名士みたいな方しか出入りしないその店で、不釣り合いなぼく達がずっと服を作っていたのは、単にその老舗の社長が長兄の友人で勘定が「ツケ」だったからに他なりません。

 現在は廃業して、ビルには証券会社がテナントで入っているとか、資産家ですから投資事業でもされているのでしょうか。なんでも、ラシャの軍服の時代から電鉄会社の制服なども納入していたそうで、広いオフィスの壁面の棚にはずらりと英国製の服地が並び、国産は御幸毛織など高級品が2銘柄ほど、洋服店と言うより生地の問屋さんみたいな感じでした。

 話が横道にそれてしまいましたが、阪急東通り商店街の殆ど人通りが無くなったあたりで左に曲がり、北側の道路を扇町プールの方向へ走りました。
 その20年くらい前、古橋広之進の力泳に沸いた扇町プールは、新入社員のころの同僚に、後に国体大阪府水泳チームの監督にもなった富田林高校-中央大学出のスイマーT さんがいて、部員一人で実業団の大会に出場するための練習によく同行しました。

 就業時間後が殆どですが、いつもポケットにスイミングパンツを入れていて、勤務時間内でも社用のライトバンに同乗していて、東商業でしたか・・プールが見えると、「ちょっと待っといて」と言って30分くらい泳いだこともありました。

 また、話が・・・・・・さすがに汗ばんできて、走るのを止めて右を見ると、「関西国際学友会館」という2階建て(だったと思う)の建物の前で、東南アジアの留学生らしい青年がなにかしているのが目にはいりました。ここは、話に聞いていた、まさにぼくが産まれた場所でした。(戸籍謄本に記載)
http://www.jasso.go.jp/organization/history_kansai.html

 母に聞いた話によると、当時は東南アジアの留学生用の宿舎になっていた、その建物の前身は[浪速ホテル]と言い(駐留軍用でしょうか)、さらに戦前は大阪でも数少ない産科専門の病院だったそうです。公立なのか私立なのかは聞き漏らしましたが、その産院でぼくは産まれたわけで、ちょっと感慨深いものがありました。

 走っていて思いだしたのですが、たぶん4-5歳の頃の夏、兄弟が輪になって母の切るスイカを見ていました。何回か切って、最後の包丁を入れる瞬間に「ぼくはこれがいい」と、手をだした中指が力をいれた包丁で殆ど切断されそうになりました。

 母は素早く包帯で止血すると、ぼくを背負って真夏の田舎の白い道を、村の診療所まで走りました。いま思えば、たぶん1キロくらいは十分あったと思います。夏の日にキラキラ光る母の首筋を流れる汗の記憶があります。母の履物は何だったのでしょう、靴を履いた姿は見たことがなかったので、ひょっとしたらいつもの桐の下駄だったかもしれません。

 幸い大きな傷跡は残りましたが、なんとか切断されずに完治しました。いまも残った傷跡は母を思い出すために神様がつけたのかもしれません。そういえば、当時は村中でたった1台の自動車はその診療所の医師のたぶん公用車の黒塗のダットサンで、例の「大和屋」のご主人が運転していました。すると、Hさんは地方公務員だったのでしょうか。

 その母に、いままで自分はなにか親孝行の一つでもしたのだろうか・・・心配ばかりかけて何もしていないのじゃないか・・・このまま死んでしまったら・・・などと思いながら北野病院へ入って行きました。

 (②へ続く)
*むかし書いたBlogより。検索したが見当たらないので②は書かなかったようです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?