ケルト神話についての前提知識:「ケルト人」という概念(2)(5/3改訂・加筆)

前回の補足です。

「『ケルト人』というのは近代になってから創作された概念である」という話ですが、これについてもう少し他の方の、それも私より詳しい先生方の意見を参照したいと思います。

紹介しますのは日本ケルト学会会報『ケルティック・フォーラム』(vol. 7, 2004年10月) です。発行の少し前に日本ケルト学会で行われたシンポジウム「『島のケルト』概念を問う」における三つの報告の要約が掲載されています。報告者はそれぞれ南川高志、辺見葉子、田中美穂(敬称略)です。

今回はそのさらなる要約を、箇条書きで行います。これにより、特にアイルランドやウェールズなどのいわゆる「島のケルト」に関連する文脈で、「ケルト」概念を無批判に用いることの問題点が明らかになると思われます。


・「ケルト」概念は、そもそも別個の文化・歴史を持つ諸集団が、同じ系統の言語を話すというだけの理由で一つの枠に放り込まれ、構築された⇒それぞれの集団の個別性を無視してしまう

・ブリテン諸島において実際に「ケルト」という語が用いられるようになったのは近代以降であり、「(島の)ケルト」の歴史はせいぜい200~300年しかない

・アイルランドの「ケルト人」は「霊的・幻想的なものへの嗜好が強く、極めて情緒的」な「未開・野蛮な猿人」(p. 53) であるとして、イングランドによるアイルランドの植民地支配が正当化された。一方のアイルランドも、ナショナル・アイデンティティの象徴として「ケルト」を前面に押し出してきた。⇒「ケルト」の語は政治的な意図とともに用いられてきた

・18世紀以降の「ネオ・ドルイディズム」や20世紀の「ニューエイジ」との結びつきがアカデミズムの外で起こった⇒「ケルト」の語に神秘主義的イメージが付きまとう

・80年代以降の「ケルトブーム」により「ケルト」が商業化⇒一般レベルでの見直しがいつまでも進まない


要約は以上ですが、そもそもなぜ「ケルト」がもてはやされるのでしょうか。原清『ケルトの水脈』によると、その答えは「ヨーロッパ統合のシンボル」と「現代文明へのアンチテーゼ」です。

原によれば、これまでヨーロッパの原点でありアイデンティティでもあったローマ文明とキリスト教が、「いまや普遍性をもつ現代文明全体の基点であり、ヨーロッパが独占するわけにはいかない。こうしてヨーロッパ独自のアイデンティティの基礎づけとして脚光を浴びるようになったのが、ケルト文化だった」(p. 14) のです。

また「ケルト」は「ローマ文明やキリスト教が押しつぶしたような野蛮な、雑然とした、書きことばをもたないとされていた文化」(p.15) であり、ケルト・ミュージックの代表である「エンヤの大ヒットの背景にあるのは、疲労、疲弊とイコールになりつつある現代文明に対する、批判としてのヒーリング音楽」(p.15) とのことです。これは上述の「ニューエイジ」との結びつきとも大いに関連します。

以上のような理由から、「ケルト」という虚構の概念が利用されてきた、といってよいでしょう。しかしそれはどこまでいっても虚構でしかないため、言語以外のことで「ケルト」の括りを用いるのは危険です。アイルランドとウェールズの伝承の研究においては、前キリスト教的要素を「ケルト」として強調しすぎるのは「ネイティヴィスト」的な姿勢として批判の対象となってきました。辺見によれば、この二つが「島のケルト」の名のもとに同一視されてきたといいます。

たとえば、「ケルトの異界」という表現は、中世アイルランド文学で描かれる異界―これ自体も決して均一ではないが―と中世ウェールズ文学における異界とが基本的に同一であるかのごとき印象を与える。もし二つを包括して「ケルト」の異界と呼ぶならば、類似点を分析し説明しなければならない。シムズ=ウィリアムズが指摘したように、実際には異界の名称という言葉のレベルですら、共有点を「ケルト」に還元することはむずかしい。「ケルトの」という形容詞を使うのは、それがケルト諸語圏だけに独特な現象であると証明できる場合に限定すべしとなると、「ケルトの異界」や「ケルトの聖人」という言い方は当然できなくなってしまう。(『ケルティック・フォーラム』vol. 7, p. 53)

注意しなければならないのは、以上は全て10年以上前の議論だということです。現在の論調がどのようになっているかは未確認ですので、確認でき次第ご紹介します。

また、「島のケルト」なるものは存在しないとする以上のような議論は、私には少しながらあまりに断定的で、過剰な反応に思えました。辺見氏が指摘するように、「アレルギー」反応 (p.53) のような印象を受けます。もちろん、印象だけで判断を決定すべきではないのですが。加えて、このような指摘・主張の具体的な内容についてもまだ調べていないので、今のところは慎重な態度を取りたいと思います(改訂前は同意を示すようなことを書いていましたが。すぐ他人の意見に流されるのは私の悪い癖です)。

しかし、「ケルト」の語ですべてを片付けてしまうのは、個々の集団の文化や歴史の個別性・独自性を無視する、乱暴なやり方だ、という点では同意です。例えるなら、日本と韓国・朝鮮と中国を全て東アジアとして同一視するようなものでしょうか。そういえば、聞いた話では「わかる」と「わける」は語源が同じだそうですね。個々の要素の区別をつけることは理解そのものである、あるいは少なくともその重要な一部である、ということですね。学問においても、まず何よりも対象の分類が大前提です。

「ケルト神話」と言っておきながらアイルランドの語は一度も出さない、にもかかわらずウェールズは無視する、あるいは神話と言っておきながら実際は神話も伝説もごた混ぜ、のような態度は容認しかねます。大抵の人が言う「ケルト神話」は、「アイルランドの神話・伝説」だ、ということは改めて指摘しておきます。そのうち「ケルト神話」の分類の概略についても書いて、知識を共有したいと思います。

参照文献:

・日本ケルト学者会議編、『ケルティック・フォーラム』、vol. 7、2004年10月

・原清、『ケルトの水脈』、講談社学術文庫、2016年[2007年]

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